1990年8月22日の夜、西ロンドンのパブでカウンターに立っていたバーマンは、常連客の注文にわずかな違和感を覚えた。いつもはハーフパイント※を一杯ずつ頼む男が、その夜はパイントを二杯まとめて買っていったのだ。もう一杯が誰のためのものだったのか、バーマンは見ていない。33歳のポール・スティーヴンスの姿が確実に確認されたのは、これが最後になった。
※ ハーフパイント:イギリスのパブでの標準的な注文単位。1パイントは約568ミリリットルで、その半分にあたる量。
翌朝6時、そこから北へ数キロ離れた運河沿いの道を自転車で通勤していた男性が、草むらに広がる赤い染みに気づいて足を止めた。水際に浮かんでいたのがポールだった。ポケットには20ポンドがそのまま残っていた。35年以上が過ぎた今も、誰が彼を殺したのかは分かっていない。
事件の概要
🗓️ 発生日:1990年8月23日未明(推定午前4時ごろ)
🌫️ 場所:イギリス・ロンドン西部、ヘイズ・アンド・ハーリントン駅付近のグランド・ユニオン運河沿い
👤 被害者:ポール・スティーヴンス(33歳)
🔍 状況:8月22日の夜にハウンズローのパブを数軒回り、午後10時にバーマンが目撃したのを最後に消息を絶つ
🕯️ 発見/結末:翌朝6時、通勤中の自転車の男性が運河で遺体を発見。後頭部への打撃による他殺。所持金は手つかず。現在も未解決
ポールはイングランド南岸のボーンマス※から出てきて、行き場を失っていたところを下宿の大家シルヴィア・ロビンソンに引き取られた。彼女の息子を介して知り合った縁だったという。昼過ぎに起きて、夕方から地元のパブを何軒も回るのが日課で、店の手伝いをすることもあったため、フェルサムやハウンズロー※の一帯では顔を知られた存在だった。
※ ボーンマス:イングランド南岸の保養地。ロンドンから南西へ約160キロ離れている。
※ フェルサム/ハウンズロー/サウソール:いずれもロンドン西部の町で、歴史的にはミドルセックス州に属した地域。ヒースロー空港を囲むように並んでおり、ハウンズローからサウソールまでは北へ約5キロ。
ポールがゲイであることは、捜査の文脈でも当時から公にされていた。警察の総括には、彼の物腰や話し方を「非常に女性的」と表現した一節が残っている。1990年の捜査記録がそう書いていた、という事実としてここに書き留めておく。大家は彼を「とても孤独」「人と交わることができなかった」と語ったが、後年、姪を名乗る人物がこれに反論している。実際には家族との行き来があり、両親が営む介護施設を手伝うこともあったという。
事件の直前、ポールは昼間の仕事を探していた。ところが職の話で会うはずだった相手から、そんな仕事は最初から存在せず、すべては担ぎ※だったと告げられている。
※ 担ぎ(wind-up):イギリス英語で、相手を本気にさせて反応を楽しむからかい・悪ふざけを指す言い回し。
判明している事実
その夜だけの頼み事
8月22日の夕方、ポールは最初に入ったパブから大家に「玄関の鍵を開けたままにしておいてほしい」と頼んでいる。普段はしない依頼だった。誰かを連れて帰るつもりだったのか、単に遅くなると見込んでいただけなのかは分かっていない。
酒をおごった男たち
午後7時ごろ、ハウンズローのタンカーヴィル・アームズで、10代後半から20代前半とみられる男がポールに酒をおごっているのが目撃されている。その後さらに三人組が合流し、うち一人は30代後半で「鋭い青みがかったヘーゼルの目」をしていたと証言された。この男はポールと深く話し込んでいたという。
「弟だ」と紹介された相手
次に確認されたのはザ・チャリオットという別のパブで、三人組の姿はなく、最初に酒をおごった男とみられる人物と一緒だった。ポールはその男を店で「弟」だと紹介している。もっとも、誰彼かまわず知り合いを「弟」と呼ぶのは彼の癖だった。
パイント二杯と、消えた数時間
午後10時、バーマンが見たのが最後の確実な目撃になる。いつものハーフパイントではなくパイントを二杯買っていたが、二杯目を渡す相手は見られていない。その後の足取りは不明で、深夜から未明にかけて北のサウソールにいたとされるものの、この目撃がどう裏づけられたのかははっきりしない。
残されていた20ポンド
遺体はグランド・ユニオン運河※の曳舟道沿いで見つかった。再現番組では殺害方法が伏せられたが、後頭部への打撃によるものとされている。死亡推定は発見の約2時間前。現場は建設途中のバイパス以外にほとんど何もない場所で、所持金の20ポンドは手つかずのまま残されていた。
※ グランド・ユニオン運河:ロンドンとバーミンガムを結ぶ運河。船を曳くための小道(曳舟道)が水路沿いに続いており、現在は遊歩道として使われている。
主な仮説
仮説1:その夜の出会いの延長線上で起きた
パブで声をかけてきた相手と一緒に店を出て、人目のない場所へ移動した先でトラブルになった、という筋書き。もしそうなら移動手段は徒歩ではなく車で、運転していた人物がそのまま最有力の容疑者になる。同時に、その人物には35年間黙り続ける理由がある。
仮説2:仕事の話をでっち上げた人物が関わっている
定職を探していたポールを「そんな仕事は最初から無い」と突き放した相手がいる。悪ふざけの域を超えた仕打ちで、日常的にからかいの標的にされていたことをうかがわせる。それが暴力に転じた可能性は考えられるが、この線が捜査で追われた形跡は残っていない。
仮説3:土地に縁のない通りすがりの人物
後日、先に酒をおごった若いほうの男はオーストラリアかニュージーランドの出身で、名前はマーティンだったかもしれないという情報が出ている。現場一帯はヒースロー空港のすぐ近くで、乗り継ぎや短期滞在で通り過ぎる人間がいくらでもいる土地だ。この線はニュージーランドまで照会されたが、何も出なかった。
仮説4:サウソールの目撃そのものが誤りだった
警察は「最後に確実に彼を見たのはパブのバーマン」と明言しながら、その2時間後にサウソールにいたという話も並べている。この目撃が人違いだったなら、移動ルートの前提が丸ごと崩れる。捜査を長年しばってきたのは、この曖昧な一点だったのかもしれない。
海外の反応
1. 謎の名無しさん
容疑者候補の目の色まで証言に残っているのがすごい。「鋭い青みがかったヘーゼル」なんて、パブで正面から向き合って話していないと出てこない特徴だと思う。顔を隠す気がまったくなかったということだよね。
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
再現VTRには入っていなかったけれど、後から出てきた話として、先に酒をおごった若いほうの男はオーストラリアかニュージーランドの出身で、名前はマーティンだったかもしれないという情報がある。あの一帯はヒースロー空港のすぐそばだから、通りすがりの人間はいくらでもいる。
3. 謎の名無しさん(>>2への返信)
ヒースローが絡むと捜査側は本当にきつい。翌日には飛行機で国外に出ていた可能性があるわけで、乗り継ぎのついでに寄っただけの人間だったら追う手がかりがほとんど残らない。
4. 謎の名無しさん(>>3への返信)
そのオーストラリア・ニュージーランド方面の線は、実際に現地まで照会がいったらしい。結局なにも出なかったようだけど、少なくとも放置された手がかりではなかった。
5. 謎の名無しさん
1990年のこの街で同性愛者だと知られていることの意味を考えてしまう。日常的に「からかわれていた」らしいというのも引っかかる。後頭部を何度も殴るというのは、怒りの出方としてかなり激しい。
6. 謎の名無しさん(>>5への返信)
仕事の話をでっち上げて彼を担いだ人物が事件に関わっていた可能性は、たしかに考えていいと思う。ただ、その線が捜査で追われた形跡がどこにも見当たらないんだよ。
7. 謎の名無しさん
仕事の件がとにかく後味が悪い。定職を探して人に頭を下げていた相手に「そんな仕事は最初から無い、全部かつぎだった」と言い放つの、悪ふざけの範囲を明らかに超えてる。
8. 謎の名無しさん
そもそもサウソールまで公共交通機関で行った前提で話が進んでいるのが引っかかる。誰かの車に乗せてもらったと考えるほうが自然じゃないか。もしそうなら、その運転手は35年間ずっと黙っていることになる。
9. 謎の名無しさん(>>8への返信)
サウソールで見かけたという話は再現VTRの中で触れられている。ただ、警察は「最後に確実に彼を見たのはパブのバーマン」とはっきり言っているのに、その2時間後の目撃だけ別枠で出てくるのが不自然なんだよな。
10. 謎の名無しさん
個人的にはサウソールの目撃自体を疑っている。人違いだったとしたら、遺体が見つかった場所までの移動ルートの前提が全部崩れる。ああいう「たぶん本人」レベルの証言は、あとから独り歩きしがちだ。
11. 謎の名無しさん
パブを出たあと、当時そういう場所として知られていた界隈に足を向けた可能性はあると思う。この時代、そうした場所で同性愛者の男性が暴行を受けるのは残念ながら珍しい話ではなかったし、被害に遭っても届け出にくかった。
12. 謎の名無しさん
遺族が「身寄りのない孤独な男」という描かれ方に異議を唱えていたのは重い。実際には両親の経営する介護施設を手伝うこともあったらしい。番組向けに人物像が作られてしまった面はありそうだ。
13. 謎の名無しさん
初期のクライムウォッチは「猫だけが友だちの孤独な老人」みたいな導入をやりがちだった。あとから減っていったのは苦情が来たからだと思うけれど、この件では人物像そのものを歪めてしまった。
14. 謎の名無しさん(>>13への返信)
人物像が歪むと、どの線を優先して追うかまで変わってくるのが厄介なところ。「孤独で誰とも関われない男」という前提から入ると、周囲の人間関係を洗おうという動機が弱くなってしまう。
15. 謎の名無しさん
大家の証言も、正直そのまま信じていいのか分からない。何百万人が見ている番組であれだけ語った内容が、家族の話とここまで食い違っているわけで。
16. 謎の名無しさん(>>15への返信)
とはいえテレビカメラの前で話を少し盛るのは、悪意がなくてもよくあること。彼女が何かを隠していると決めつけるには材料が足りないと思う。
17. 謎の名無しさん
ポケットに20ポンドが残っていた時点で物取りの線はほぼ消える。運河沿いで殴り殺しておいて財布に手をつけないというのは、金目当ての犯行の動きではない。
18. 謎の名無しさん
後頭部への打撃というのが引っかかる。正面から揉めたというより、背中を向けた瞬間にやられている。すぐ隣を一緒に歩いていた相手だった可能性はかなり高いんじゃないか。
19. 謎の名無しさん(>>18への返信)
凶器が出ていないのも、運河沿いという場所を考えれば納得がいく。殴ったものをそのまま水に落としてしまえば、当時の捜査ではまず見つからない。
20. 謎の名無しさん
誰彼かまわず「こいつは俺の弟だ」と紹介する癖があったというのが、目撃証言をややこしくしている気がする。一緒にいた男を「弟」だと紹介されたら、店の人間は深く気に留めない。
21. 謎の名無しさん
1990年当時のあの曳舟道は、街灯もほとんどない真っ暗な場所だったはず。バイパスの工事中で周りに建物もない。目撃者が一人も出てこないのは、そもそも人がいなかったからだと思う。
22. 謎の名無しさん(>>21への返信)
その真っ暗な場所へ深夜に行くには、歩くには遠すぎる。誰かの車で連れていかれたと考えるのが一番シンプルで、そうなるとやはり運転手が最有力ということになる。
23. 謎の名無しさん
この時代のイギリスで、同性愛者が被害者の事件の捜査が十分だったのかと疑う人が出るのも無理はないと思う。ただこの件に限れば、どこで手が止まったのかまでは資料から読み取れない。
24. 謎の名無しさん(>>23への返信)
公開捜査番組で再現VTRまで作られて、12年後にもう一度取り上げられている。少なくとも最初から捨てられた事件という扱いではなかったはずだ。80件の通報のうち1本は「捜査を大きく前進させた」とまで言われていたわけだし。
25. 謎の名無しさん
数マイル離れた場所で起きたアンソニー・リトラー事件は、この件より6年古くて完全に冷え切っていたのに、去年になって突然解決して2人に終身刑が出ている。だから望みがないとは思わない。
26. 謎の名無しさん(>>25への返信)
ああいう解決はだいたい誰かが口を割るところから始まる。当時の証拠が保管されていれば、そこに現代の科学捜査が乗る形になる。35年経っていても順番が回ってくる可能性はある。
27. 謎の名無しさん
2002年の2度目の再現VTRを見たけれど、最初の版を短くしたうえに大家の存在が丸ごと消えていた。おかげでタンカーヴィル・アームズより前に寄ったパブの話まで、まるごと話から抜け落ちている。
28. 謎の名無しさん(>>27への返信)
短縮版だから削られただけという可能性もあるけどね。放送時間が限られている中で、事件の核心から遠い部分から落としていくのは普通の判断ではあると思う。
29. 謎の名無しさん
姪にあたる人が今も各所に書き込んで事件を風化させまいとしている。しかも内容は毎回ドラマチックさのない同じ話で、そこがかえって信用できる。警察から家族への連絡は20年以上途絶えているそうだ。
30. 謎の名無しさん
33歳で、その日もいつも通りパブを何軒か回って、違ったのは二杯目を頼んだことだけ。それだけのことで、朝には運河に浮かんでいた。犯人が誰であれ、いつか名前がつく日が来てほしい。
未解決の謎
事件から3か月後、BBCの公開捜査番組クライムウォッチUK※が再現VTRを放送した。翌月の放送では80件の通報が寄せられたことが報告され、そのうち1本が「捜査を大きく前進させた」とまで伝えられている。だが、その手がかりも他の材料もすべて行き止まりだった。2002年には短縮版の再現が放送されたが、新しい情報は何ひとつ加わっていない。
※ クライムウォッチUK:1984年から2017年まで放送されたBBCの公開捜査番組。未解決事件を俳優による再現映像で紹介し、視聴者からの情報提供を募った。
この事件がほどけない理由は、最後の2時間が丸ごと空白になっていることに尽きる。午後10時にパブを出たポールが、どうやって北のサウソール方面へ移動したのか。徒歩では遠すぎ、深夜のバスは当てにならず、残るのはタクシーか誰かの車しかない。つまり犯人か、少なくとも犯人につながる人物が、彼を乗せた可能性が高い。それでも35年、誰も名乗り出ていない。
もう一つの引っかかりは、彼の人物像そのものが最初の段階で歪められていた可能性だ。「孤独で、誰とも交われなかった男」という語り口は、視聴者に同情を呼ぶ物語としてはよくできている。だがそれが事実と違ったのなら、周囲の人間関係を洗うという最も基本的な捜査の入口が、始まる前から狭められていたことになる。実際、遺族への連絡は20年以上前に途絶えたままだという。
それでも望みが完全に消えたわけではない。数マイル離れた場所で起きたアンソニー・リトラー事件は、この事件より6年古く、完全に冷え切ったコールドケースだったにもかかわらず、関係者の供述をきっかけに近年になって解決し、2人に終身刑が言い渡された。あの夜、ポールが二杯目のパイントを買った相手は誰だったのか。その答えを知っている人間は、まだどこかで生きている可能性が高い。


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