名前を言えば、そこから出られるかもしれない。それでもその男は、何年ものあいだ何も言わなかった。2013年にカナダ・トロントで詐欺事件の容疑者として逮捕された男は、自分の本名も、生まれた国も、これまでどこで何をしていたのかも語らない。当局が11か国に照会をかけても、彼が誰なのかは分からないままだった。そして国籍が分からない相手は、どこにも送り返せない。刑期や手続きの問題ではなく、「身元が特定できない」という一点だけで、彼は最高警備刑務所※に留め置かれ続けた。
※ 最高警備刑務所:カナダの連邦刑務所は警備レベルが3段階に分かれており、最高警備(maximum security)は逃走・暴力のリスクが高いと判断された収容者を置く区分。行動の自由がもっとも厳しく制限される。
元スレッドが立ったのは2019年5月、拘束が6年目に入った時点である。以下は当時のカナダ紙報道と、それを読んだ海外の掲示板利用者たちのやり取りをまとめたものだ。
事件の概要
🗓️ 発生時期:2013年(トロントでの逮捕)/元スレッド投稿は2019年5月
🌫️ 場所:カナダ・オンタリオ州トロント(本人はモントリオール在住と主張)
👤 当事者:「ハーマン・エマニュエル・ファンケム」を名乗る男性。本名・国籍とも不明
🔍 状況:40万ドルを超える詐欺事件で逮捕。自称した身元がフランス当局に否定され、以後いっさい身元を語らない
🕯️ その後:国籍が確定できず送還できないまま拘束が6年目に。2019年5月15日に予定されていた公開審理は直前に非公開へ変更
男が名乗ったのは「ハーマン・エマニュエル・ファンケム」、モントリオールに住むフランス国民という肩書きだった。カナダ当局がフランス側に照会したところ、返ってきた答えは想定外のものだった。パスポートは偽造であり、そもそもそんな人物の記録は存在しない、というのである。
そこから捜査は国境をまたいで広がっていく。11か国におよぶ調査の結果、この男とみられる人物が、逮捕以前から複数の国に複数の名前で現れていた形跡が浮かんだ。だが「別名がいくつあるか」は分かっても、「本名は何か」には最後まで届かなかった。本人が口を開かないからである。
判明している事実
フランス側の回答は「そんな人物の記録はない」
逮捕された男が提示したのはフランスのパスポートだった。カナダ当局がフランスの法執行機関に確認したところ、その旅券は偽造であり、名乗っている人物についての記録も存在しないという回答が返ってきた。つまり出発点となる身元情報が、最初の一手でまるごと崩れたことになる。
11か国をまたぐ調査で浮かんだ複数の別名
その後の調査は11か国におよんだ。元スレッドの記述によれば、この男は逮捕される以前から、いくつもの国で複数の別名を使って現れていたとみられている。ただしそれらの別名をたどっても、本名や本当の国籍を裏づける記録には行き着かなかった。
本人が身元を語らず、当局に敵対的
男は捜査当局にも刑務所側にも非協力的で、報道によれば敵対的とすら言える態度を取り続けた。自分の名前、出身、これまでの経歴について、どの質問にも答えない。数か月や1年の話ではなく、この沈黙が年単位で続いた点がこの件の核心である。
国籍が分からないため送還手続きが動かない
カナダ国境サービス庁※は外国籍の人物を出身国へ送還する権限を持つが、その前提として「どの国に送るのか」が確定していなければならない。相手国が受け入れを認めなければ送還は成立しない。国籍不明のままでは、書類の上でどこにも送れない。結果として、収容だけが続く状態になった。
※ カナダ国境サービス庁(CBSA):出入国管理・税関・国外退去の執行を担当するカナダの連邦機関。日本の出入国在留管理庁と税関を合わせたような役割にあたる。
公開が原則の審理が、直前に非公開へ
男は2019年5月15日、移民難民委員会※の場で公開の審理に臨む予定だった。ところが直前になって、報道関係者も一般傍聴人も入れない非公開の審理に切り替えられた。カナダの法制度では、この種の審理は例外的な事情がない限り公開で行われるのが原則とされている。この土壇場の変更こそ、元スレッドの投稿者がこの件に強く引っかかった理由だった。
※ 移民難民委員会(IRB):カナダの独立した審判機関。難民認定のほか、退去強制や収容を続けることの妥当性を定期的に見直す「収容審査」もここが担当する。裁判所ではないが、収容の可否を左右する重い判断を下す。
主な仮説
仮説1:帰国したほうが危険だから黙っている
元スレッドでもっとも支持を集めたのがこの見方だった。刑務所に何年も入り続けることを選ぶということは、送還された先に待っているものが刑務所より悪い、という判断が本人の中にあるのではないか、という理屈である。本国で重い罪に問われている、あるいは私的な報復の対象になっている、といった想定が語られた。ただしこれはあくまで海外の掲示板利用者の推測であり、本人がそう述べたという報道は元スレッドの範囲には出てこない。
仮説2:諜報活動に関わっていた
複数国・複数名義での移動歴と、6年たっても割れない口の堅さ、そして審理が非公開になったこと。この3点を組み合わせて、国家レベルの案件ではないかと見る人も多かった。一方で反論も強い。40万ドル規模の詐欺で警察の目を引くのは工作員としては最悪の振る舞いだし、本物の情報機関の人間なら他国の刑務所で6年も生きたまま放置されないのではないか、という指摘である。元スレッドの中では、この反論のほうが説得力を持って受け止められていた。
仮説3:出身国で追われている、あるいは別名の資産を守っている
掲示板では、報道内容や話し方から、この男がフランス語圏アフリカのどこかの出身ではないかとする見立てが繰り返し出た。どの国かについては書き込み同士でも意見が割れており、確定した情報ではない。出身国で別件の追及を受けている、あるいは地元の有力者を怒らせている、という筋書きである。これとは別に「本名を明かせば、まだ生きている別の名義とそこに紐づく資産まで失う。だから服役を選んで名義を守っている」という、より打算的な読みも支持を集めた。どちらも本人が語ったわけではなく、報道の断片からの推測にすぎない。
仮説4:単に折れないだけ、あるいはカナダ残留を狙った消耗戦
もっと身も蓋もない見方もあった。深い事情などなく、自分を罰しようとする政府に屈したくないだけの意地の張り合いだ、という説である。またこれと近い立場として、送還されるくらいなら収容に耐え、いずれ手続きが行き詰まって国内に残れる可能性に賭けている、という読みもあった。米国では似た状況で刑期満了とともに釈放された例が掲示板で紹介されている。
海外の反応
1. 謎の名無しさん
まず思ったのは、この人が逃げようとしている何かは最高警備刑務所より悪いってことだよ。そしてその何かについては、たぶん一生しゃべらない。しゃべった瞬間に終わるから黙ってるわけで。
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
同じことを考えた。残りの人生ずっと塀の中でもいい、と腹をくくれるってことは、外に戻ることのほうがよほど怖いんだろうね。人間ってそこまで割り切れるものなんだなと妙に感心した。
3. 謎の名無しさん
一応言っておくと、この人は詐欺師なんだよね。報道によれば、商業物件の売り広告を出していた男性に接触して、南アフリカから届く大金が黒い塗料で覆われていて特殊な薬品で洗わないと使えない、と持ちかけた。目の前で黒い札が真っ白になる実演までして、その薬品代を出させたと。ミステリーというより古典的な詐欺の手口だよ。
4. 謎の名無しさん
気になるのは、詐欺の刑期そのものはとっくに区切りがついていてもおかしくないのに、身元が分からないというだけで収容が続いていること。これ、本人の意地の問題であると同時に制度の穴でもあるよね。終わりが決まっていない拘束って、法治国家がいちばんやってはいけないやつでは。
5. 謎の名無しさん
他の国でも別名で現れていて、しかも6年経っても折れないだけの根性がある。ここまで揃うと諜報関係を疑いたくなる。審理をわざわざ非公開にするあたりも、外に出せない安全保障上の事情があるように見えてしまう。
6. 謎の名無しさん(>>5への返信)
自分も最初にスパイを思い浮かべた。偽造パスポートがそれなりの出来だったらしいのも引っかかる。国家公認の工作員とまでは言わないけど、少なくとも単なるホワイトカラー犯罪者では説明がつかない気がする。
7. 謎の名無しさん(>>5への返信)
非公開にできる理由は三つあって、関係者の生命や安全が危うくなる場合、公開すると手続きの公正さが損なわれる場合、公共の安全に関わる情報が漏れる場合。今回示されたのは二つ目だと言われている。正直これがいちばん曖昧で、何をもって公正さが損なわれると判断したのかがまるで見えない。
8. 謎の名無しさん
この男は、どこかの国で死刑になるようなことをやったか、あるいは表に出せない筋の仕事をしていたか、そのどちらかだと思う。中途半端な理由でここまで頑張れる人はいない。頑張るというか、耐えてるんだけど。
9. 謎の名無しさん(>>8への返信)
一応補足すると、カナダは死刑に直面する可能性がある国へは送還しない建前になってる。だから本当に死刑相当の罪を抱えているなら、正直に話したほうが送還を止められる可能性すらある。それでも黙るということは、恐れているのは司法じゃなくて司法の外にいる誰か、という線が濃くなる。
10. 謎の名無しさん
諜報でないなら、どこかの組織を裏切った線じゃないかな。追われている人間にとって、24時間見張られていて誰も入ってこられない施設って、実はいちばん安全な隠れ家なんだよ。刑務所を宿として選ぶ人は昔から一定数いる。
11. 謎の名無しさん
彼はスパイじゃないと思うよ。実際に摘発された本物の工作員って、びっくりするほど退屈な郊外の暮らしをしていることが多い。トロントに何年も住んでからアメリカに渡ったロシアの夫婦の例なんて、周りからは完全にただのご近所さんだった。子どもたちですら逮捕されるまで親の正体を知らなかったくらいで。
12. 謎の名無しさん(>>11への返信)
あの一家の話は読んだけど、子どもたちが本当に気の毒だった。十代の終わりや二十代の入り口で、親が自分の思っていた人物じゃなかったと知らされて、しかも自分の国籍まで揺らぐ。当人たちは何もしていないのにね。
13. 謎の名無しさん
訛りと語彙をきちんと分析すれば出身地はかなり絞れるはずなんだけど、そういう専門家は入ってないのかな。フランス語の地域差に詳しい言語学者なら、本人が身の上を一言も語らなくても、話し方だけである程度の見当はつけられると思う。
14. 謎の名無しさん
ただ、フランス語が母語だとは限らないよ。アフリカにはフランス語を学校で習って流暢に話す国がいくつもある。自分の知り合いにもガーナで教育を受けて完璧なフランス語を話す人がいる。訛りから国を当てるのは思ったより難しいはず。
15. 謎の名無しさん
寝ている人にバケツの水をかけると、そのとき叫ぶ言葉が母語だ、という古い言い伝えがあるよね。もちろん冗談だけど、この件みたいに何年も手詰まりだと、当局が本気でその手のことを検討し始めても不思議じゃない気がしてくる。
16. 謎の名無しさん
元記事を読むと、彼の過去についてはかなりの部分が既に割れていて、出身地の見当もついているらしい。自分の賭けとしては、若い頃から犯罪の世界にいて、その中で自分は詐欺の才能があると気づいた人。どこかで危ない相手を騙してしまい、国を出て転々とするうちにカナダに行き着いた。本名を認めれば過去の分まで芋づるで出てくるし、送還されれば向こうで待ち構えている人間がいる。だから黙る。
17. 謎の名無しさん(>>16への返信)
自分もほぼ同じ結論。気になるのは、この詐欺には共犯者が複数いたはずなのに、その人たちの背景がほとんど語られていないこと。到着してから短期間であれだけ手の込んだ話を組み立てられたなら、現地に前からつながりがあったと考えるほうが自然だと思う。
18. 謎の名無しさん
どうにも噛み合わないのは、本人が「自由になりたい」と言っている一方で、それを実現できる立場の人たちに暴言を吐いて、収容の見直しの場にも顔を出さないことなんだよね。書類の偽造も雑だったという話まである。ものすごく賢く立ち回っているのか、単に無計画なのか、どちらとも取れてしまう。
19. 謎の名無しさん
本物の工作員が、45万ドル規模の古典的な前金詐欺で警察に捕まるとは思えないんだよな。任務を危険にさらす行為の見本みたいなもので、これで注目を集めるのは訓練で最初に禁じられることのはず。むしろ「スパイではない」証拠に近い。
20. 謎の名無しさん
それに、価値のある工作員だったなら、6年も他国の刑務所で元気に生きているのが不自然だと思う。そういう世界では、口を割られる前に静かに片づけられてしまうものでしょう。誰も回収に来ないし誰も消しに来ないという事実自体が、この人が組織を持たない個人であることを示している気がする。
21. 謎の名無しさん(>>20への返信)
一点だけ補足すると、資金の乏しい国の工作員が現地で犯罪をして活動費を稼いでいた例は実在する。北朝鮮の関係者が薬物取引で摘発された件がそれ。だからスパイ説が理屈として完全に潰れるわけではない。とはいえ、この人に関しては自分もスパイではないと思う。
22. 謎の名無しさん
自分の推測は二つある。ひとつは、まだ使える別の偽名と、その名義で持っている財産を守るために本名を伏せている説。もうひとつは、本国でこの詐欺より重い罪を犯している説。個人的には前者だと思う。一度大金の暮らしを知った人が、出所後に何も残っていない状態に戻るのを受け入れられるとは思えない。数年黙って財産を守れるなら黙る、という計算は十分あり得る。
23. 謎の名無しさん
その線で考えると、詐欺そのものが誰かへの返済のためだった可能性もあるよね。急いで大金が要る事情があって、雑でも一発当てられる手口を選んだ。だとすると詰めの甘さと沈黙の固さが同居していることの説明もつく。
24. 謎の名無しさん
似た話を読んだことがある。ロサンゼルスの路上で暮らしていた男性が、そこそこ重い罪で数年の刑を受けた。アフリカ系の風貌でフランス訛りのフランス語を流暢に話し、自分はフランス国民だと主張し続けた。ところがフランスは渡航書類の発行を拒み、うちの国民ではないと回答した。出身を明かせば送還してやると持ちかけられても最後まで応じず、刑期を終えたので釈放するしかなくなった。結局、身分証も頼れる人もないまま路上に戻ったらしい。この人も同じ賭けをしているのかもしれない。
25. 謎の名無しさん(>>24への返信)
これがいちばん現実的だと思う。マフィアだの諜報だのと盛り上がっているけど、要するに先進国に居続けたいだけの人という可能性が高い。偽造書類を使ってきた履歴があるから正攻法では在留資格が取れず、粘っていればいずれ手続きが行き詰まる、と踏んでいるのでは。
26. 謎の名無しさん
素朴な疑問なんだけど、DNAを調べれば遠縁でも誰か引っかかりそうなものじゃないの。市販の家系調査サービスが行方不明者の身元特定で成果を上げているのを見ると、そちらのほうが早い気がしてしまう。
27. 謎の名無しさん(>>26への返信)
それがそう単純でもなくて、まず収容中の人から強制的にDNAを採れるかという法律上の問題がある。加えて、各国の犯罪DNAデータベースは国際的につながっていない。国ごとに個人情報保護のルールが違うから、他国に自国民の遺伝情報を渡す仕組みがそもそも存在しないんだよ。照合先がなければ採取しても意味がない。
28. 謎の名無しさん
自分はスパイ説より、精神的に不調を抱えている可能性のほうが高いと思っている。あるいは本当に、身元が割れた瞬間に命が危ない立場の人。難民の中には珍しくない話で、その場合はむしろ保護されるべき側になる。訓練された暗殺者だと考えるより、ずっとありふれた説明がつく。
29. 謎の名無しさん(>>28への返信)
精神的な不調という線は、複数の旅券で国をまたいで移動していたという事実と噛み合わないと思う。それができる人は現実的な判断力を保っている。ただ、フランス側は照会が来るまで彼を把握していなかったわけで、追われている人物という見立ても同じくらい微妙なんだよね。結局どの説も一か所ずつ穴がある。
30. 謎の名無しさん
散々議論してきたけど、単に強情なだけという説を捨てきれない。自分を裁こうとしている政府に一つも譲りたくない、それだけで年単位を耐える人はいる。ただ、たとえ理由がそれだとしても、終わりの見えない収容を国が続けていいのかは別の話だと思う。彼が黙るのは彼の自由で、その沈黙に対して国が用意した答えが無期限の収容というのは、どこか間違っている。
未解決の謎
この件で本当に厄介なのは、謎を解く鍵が最初から最後まで一人の人間の口の中にしかない、という点である。犯罪捜査であれば物証を積み上げて真相に迫れる。しかし「この人物は誰なのか」という問いだけは、本人が話さない限り、11か国を調べても届かないところがあった。フランスは記録がないと答え、別名をいくつ並べても本名には行き着かない。捜査の限界というより、身元という概念そのものの限界にぶつかっている。
もうひとつ残るのが、公開が原則の審理が土壇場で非公開に切り替えられた理由である。元スレッドで語られたところでは、示されたのは「公開すると手続きの公正さが損なわれる」という理由だったという。だがそれが具体的に何を指すのかは、外からは分からないままだった。国家安全保障のためだと読む人もいれば、本人の安全のためだと読む人もいて、決め手はない。
そして最大の問いは、なぜ彼が黙り続けたのか、である。帰国先で命が危ないから、という説には説得力がある。だがそれなら、詐欺で目立つ前に保護を求める道もあったはずだ。逆に単なる意地だとするなら、失われた年月に見合うものは何もない。どの説明も一か所ずつ辻褄が合わない。
最後に付け加えておくと、この元スレッドが立ったのは2019年5月であり、記事の内容はその時点までの情報にもとづく。その後この人物がどうなったのか、身元が判明したのか、送還されたのか、あるいは釈放されたのかは、元スレッドの範囲では分からない。分かっているのは、名前を明かすだけで動き出すはずの手続きが、名前を明かさないという一点で何年も止まり続けたという事実だけである。


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