ノルウェーの作曲家ヨハン・スヴェンセン(1840〜1911年)が残した交響曲※は2曲しかない。3曲目は書き上がっていたのに、夫に届いた恋文に怒った妻が原稿を火に投げ込んでしまった——音楽史ではそう語り継がれてきた。イプセンの戯曲『ヘッダ・ガーブレル』で主人公が他人の原稿を燃やす場面は、この話がもとになったとも言われる。
※ 交響曲:オーケストラのために書かれる大がかりな曲。ふつう4つの楽章でできていて、作曲家にとっては力量を問われる看板の仕事になる。
ところが、この話を伝えているのは友人ひとりの回想だけで、それが活字になったのは、出来事から約60年もあとだったとみられる。しかも2007年には、交響曲のためとみられる下書きがコペンハーゲンの図書館で見つかっている。原稿は本当に燃えたのか。そもそも完成していたのか。海外掲示板で音楽好きたちが議論していた。
事件の概要
🗓️ 時期:1883年の春ごろとされる(正確な日付は不明)
🌫️ 場所:ノルウェーの首都クリスチャニア(現在のオスロ)
👤 当事者:作曲家・指揮者ヨハン・スヴェンセン(当時42歳)と、アメリカ出身の妻サラ(愛称サリー)
🔍 伝えられている話:演奏会のあと夫に届いたバラの花束に、恋文が隠されていた。それを見つけた妻が、書き上がったばかりの交響曲第3番の原稿を火に投げ込んだ
🕯️ その後:第3番は、ついに世に出なかった。夫妻は1884年に別居し、1901年に離婚。スヴェンセンは1911年にコペンハーゲンで亡くなった
スヴェンセンはクリスチャニアに生まれ、ドイツのライプツィヒ音楽院で学んだ。在学中に書いた交響曲第1番(1867年初演)と、帰国後の第2番(1876年初演)で名を上げ、『ペール・ギュント』で知られるエドヴァルド・グリーグとは親しい友人だった。1872年からは、クリスチャニアの音楽協会の演奏会を二人で指揮している。指揮者としても各国のオーケストラに招かれ、スレを立てた投稿者は「おそらく史上初のスター指揮者」と紹介している。
私生活では、1871年の夏にニューヨークでアメリカ人歌手のサラ・レヴェットと結婚した。問題の出来事は、クリスチャニアで暮らしていた1883年の春ごろに起きたとされる。その年の夏、スヴェンセンはデンマークへ移ってコペンハーゲン王立劇場の楽長(首席指揮者)に就き、1908年に退くまで務めた。夫妻は1884年12月に別居し、妻はパリへ移っている。離婚が成立したのは1901年12月。そのときスヴェンセンには、デンマークのダンサー、ジュリエット・ハーセとのあいだにすでに3人の子がいて、離婚の直後に彼女と再婚した。
判明している事実
出どころは友人ひとりの回想
この話を書き残したのは、スヴェンセンの友人だったノルウェーの作家ヨン・パウルセン(1851〜1924年)。スレに引用された英訳によると、回想はおおよそ次のような内容だ。美男で魅力的なスヴェンセンはいつも女性に追いかけられ、手紙や花が届いた。妻のサリーにはそれがつらかった。ある演奏会のあと、オスロでも評判の美人「ミスE」から大きなバラの花束が届き、花のあいだに恋文が隠されていた。花束も手紙も、疑いを抱いていた妻の手に渡ってしまう。夫には、長いあいだ取り組んでちょうど書き上げたばかりの新しい交響曲があった。妻は机の引き出しから原稿を取り出し、火に投げ込んだ——。パウルセンはこのくだりで、妻を「あの悪魔のような女」と呼んでいる。英訳では街の名が今の「オスロ」になっている。この回想を紹介した米ウィスコンシン公共ラジオの記事では、話はスヴェンセン本人がパウルセンに語ったものとされている。
活字になったのは約60年後とみられる
パウルセンは生前に回想録を何冊も出したが、ノルウェーの百科事典によると、遺稿になった回想が、没後の1943年に文学研究誌『エッダ』に載っている。スレの投稿者も「評伝はこの話を1943年に出た本から引いていて、いつ書かれたものかは分からない」と書いている。年が一致することから、火の話が活字になったのはこのときとみられる。出来事とされる1883年から約60年、パウルセンの死からも19年がたっていた。同じ百科事典は、彼の回想録について「文化史的な価値はあるが、やや不正確だと言われている」という趣旨の評価を載せている。スヴェンセン本人や妻が書き残した証言は、今回調べた範囲では見つからなかった。
下書きは図書館に残っていた
ノルウェーの人名事典は、妻が嫉妬に駆られて原稿を燃やしたのは「おそらく1883年の春」としたうえで、「そのとき作品がどこまで進んでいたかは分からない」「スヴェンセンはその後もこの作品に取り組んだが、完成しなかった」という趣旨の説明をしている。実際、下書きは残っていた。2007年、ノルウェーの指揮者ビャルテ・エンゲセトが、コペンハーゲンの王立図書館で、交響曲のためとみられるスケッチ(作曲の下書き)を見つけた。これを調べたオスロ大学の研究者で作曲家のビョルン・モルテン・クリストフェルセンによると、見つかったのは6冊のノートで、スケッチの多くは1870〜80年代にクリスチャニアで書かれたものだという。彼はその一部を補筆※してオーケストラ用に仕上げ、2011年2月、エンゲセト指揮のベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団が初演した。この仕事をまとめた論文の題は「ヨハン・スヴェンセンの失われた、あるいは未完の交響曲」。題そのものが、燃えて失われたのか、書き上がらなかったのか、どちらとも決めていない。投稿者によれば、演奏はその一度きりで、録音は出ていないという。
※ 補筆:未完成のまま残された曲を、下書きをもとに別の人が補い、演奏できる形に仕上げること。
作曲の失速は出来事の前から
クリストフェルセンはCDの解説で、スヴェンセンは30代の終わりには着想と生産力の衰えを感じていたようで、1880年前後にグリーグへ宛てた何通かの手紙でそれをこぼしている、と書いている。40代の初めから亡くなるまでに完成させたのは機会音楽※が数曲だけだったという。投稿者が作品の年代を数えたところでは、完成した約80作のうち、その後は8作だけだという。投稿者は評伝をもとに、演奏旅行と酒、女性関係が創作の妨げになっていたとも書く。
※ 機会音楽:式典や祝賀など、特定の行事のために注文されて書く曲。
『ヘッダ・ガーブレル』との関係は裏付けが見つからない
イプセンがこの戯曲を書いたのは1890年。劇中では、学者レーヴボルグが酔って原稿をなくし、執筆を支えてきたテアには「千々に破いて、フィヨルドの沖にまいた」という趣旨のうそを言う。原稿は主人公ヘッダの手もとにあり、彼女は二人が去ったあと、それをストーブの火にくべてしまう。スレが引用しているのは、レーヴボルグがうそを言う場面のほうだ。「イプセンはスヴェンセン夫妻の話を使った」という説明は、音楽解説や楽譜の序文で繰り返されている。パウルセンはイプセンとも交流があり、その思い出を回想録にまとめた人物でもある。ただ、オスロ大学イプセン・センターの作品解説も、ノルウェーの百科事典の『ヘッダ・ガーブレル』の項目も、スヴェンセンには触れていない。イプセン本人がそう語ったという記録は、今回は確認できなかった。
主な仮説
仮説1:逸話のとおり、書き上がった原稿が燃やされた
パウルセンの回想を、ほぼそのまま受け取る見方。友人が具体的な場面つきで書き残していて、ノルウェーの人名事典も「妻が原稿を燃やした」こと自体は事実として書いている。翌1884年に夫妻が別居したことも、深刻な衝突があったことをうかがわせる。弱いのは、証言がこの回想ひとつしかなく、活字になったのが約60年後とみられる点だ。妻の側の言い分は伝わっていない。
仮説2:燃えたのは下書きか一部で、話が大きくなった
何かの楽譜が火に入ったのは本当でも、それが「完成した交響曲の、ただ1部しかない原稿」だったとは限らない、という見方。人名事典が「どこまで進んでいたかは分からない」と書いていること、スヴェンセンがその後も同じ作品に取り組んだとされること、交響曲のためとみられるスケッチが現に残っていること。この3つといちばん無理なくつながる。語り継がれるうちに「書きかけ」が「書き上げたばかり」に育った、というわけだ。
仮説3:書けなかったことを覆う作り話だった
スレの投稿者が傾いているのがこの説。創作の衰えは1880年ごろから本人が手紙でこぼしていて、出来事の「前」に始まっている。「妻に燃やされた」は、書けなくなったと認めるよりずっと通りのいい説明になる。話の出どころがスヴェンセン本人の語りだとすれば、なおさらだ。ただし、作り話だと示す証拠があるわけではなく、これも状況からの推測にとどまる。
仮説4:酔った本人がなくしたか、自分で処分した
コメント欄から出た見方。酒の問題を抱えていたのなら、原稿をどこかに置き忘れたり、スケッチの束と取り違えたりしたのを、あとから「妻のせい」にして体面を保ったのではないか、という想像だ。裏付ける資料はなく、あくまで読者の推理である。
海外の反応
1. 謎の名無しさん
「犬に宿題を食べられました」と同じ種類の言い訳に聞こえる。作曲に行き詰まっていて、完成した第3番なんて最初から無かったんじゃないかな。それはそれとして、殺人じゃない謎が読めるのはうれしい。
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
スレ主だけど、自分もほぼ同じ意見。作品は年を追うごとに短くなっていたし、出来にもムラがあった。調べてみたら、1884年から1908年まで第3番のスケッチをいじり続けていたらしい。他人が手を入れてやっと演奏できる形になり、それも全体のごく一部だ。
3. 謎の名無しさん
浮気の証拠を見つけてしまった側の奥さんを「悪魔のような女」と書くのは、さすがにひどくないか。
4. 謎の名無しさん(>>3への返信)
ほんとそれ。配偶者に浮気されて頭にきて、ちょっとした仕返しをしたくなる。その気持ちは分かるし、悪魔とまで言うのは違うでしょ…。
5. 謎の名無しさん
でも、親しい友人がわざわざ書き残しているわけで、何かが燃えたこと自体は本当なんじゃないかな。作り話にしては、花束に隠した手紙だの机の引き出しだの、場面が具体的すぎる。
6. 謎の名無しさん
証拠が「夫の肩を持つ友人の話」ひとつだけ、というのが都合よすぎるんだよね。具体的に書いてあることと、本当にあったことは別の話だし。
7. 謎の名無しさん
読むかぎり、この人はもともと崩れかけていたように見える。奥さんが本当に1曲燃やしたとしても、それだけで作曲家としてダメになるとは思えない。重圧で書けなくなって、その苛立ちを酒と女性でまぎらわせていたんじゃないかな。
8. 謎の名無しさん(>>7への返信)
作品の年代をグラフにすると、実際ペースはその前から落ちている。客演が増えて作曲の時間が減り、酒がそれに追い打ちをかけたんだと思う。それと、スケッチが完成作の3倍ほども残っていることが分かってきた。「原稿は火の中」という話は、40代でもう大きな曲をまとめられなくなっていたのを隠す煙幕だった気がしている。
9. 謎の名無しさん
残ったスケッチをつなぎ合わせて1曲に、って、ポール・マッカートニーの曲作りみたいだ。書きかけの曲をいくつかくっつけたら、はい名曲のできあがり、という。
10. 謎の名無しさん(>>9への返信)
クラシックでは、それがめったに起きないのが面白いところ。自分が知っている数少ない例はサン=サーンスで、ピアノ協奏曲第5番の終楽章を縮めて、練習曲に作り直している。
11. 謎の名無しさん
情報量がすごい。オーケストラの曲は軽く聴く程度なので、自分にはかなり深い話だった。また深追いしたくなる話題を教えてもらった。ありがとう。
12. 謎の名無しさん
グリーグはもちろん知っているけど、スヴェンセンは聞いた覚えがなかった。曲の紹介と、わが国の有名人が何人も出てくる面白い話をありがとう!
13. 謎の名無しさん(>>12への返信)
スヴェンセンは知っておいて損のない作曲家だよ。大きな曲を無理なく組み立てる力はグリーグも認めていた。そのグリーグは自分の交響曲の構成に納得できず、「演奏してはならない」と封印している。ずっとあとになって、ソ連の指揮者が楽譜の写しを手に入れて演奏してしまい、ようやく世に出た。
14. 謎の名無しさん
出遅れたけど、酔った本人がどうにかしてしまった可能性はないのかな。どこかに置き忘れたとか、開いた窓からの風で散らばったとか。深酒で記憶が飛ぶ人だったなら、「妻のせい」にして体面を保った、というのはありそう。
15. 謎の名無しさん(>>14への返信)
十分ありうると思う。残っているスケッチは、書いたもの全体のごく一部のはず。泥酔していたら、スケッチの山と、綴じていない清書の束を取り違えても不思議じゃない。
16. 謎の名無しさん
シベリウスとの共通点は、スレ主が書いている以上に強い。あちらは妻アイノ本人の証言があって、1940年代に夫が洗濯かごいっぱいの自筆譜を自宅の暖炉で燃やしたと語っているし、交響曲第8番のものかもしれない断片はヘルシンキの図書館にいまも残っている。気になるのはスヴェンセンのスケッチのほうで、ほかの曲に使い回されているのか、それとも行き止まりなのか。25年いじり続けて完成しなかったのなら、火の話は本当でも作り話でも、「創作の泉が枯れた」と認めるより本人に都合のいい物語に見えてくる。
17. 謎の名無しさん(>>16への返信)
残念ながらスケッチは出版されていないので、そこは確かめようがない。コペンハーゲンの王立図書館まで足を運んで、現物を見るしかなさそう。
18. 謎の名無しさん
ひとつ引っかかるのは回想の信頼性で、「オスロでも評判の美人」と書いてあるけど、あの街は1925年までクリスチャニアと呼ばれていたはず。1883年ごろに書かれた文章なら、オスロとは書かないのでは。
19. 謎の名無しさん(>>18への返信)
自信満々に間違えてる。オスロという名前は当時も、街の東側の一角(いまの旧市街のあたり)を指して使われていたよ。それに、1883年なのは出来事のほうであって、回想が書かれた年じゃない。
20. 謎の名無しさん(>>19への返信)
しかも、回想がいつ書かれたのかは分かっていない。評伝の著者たちは1943年に出た本から引用していて、自分はその本を見つけられなかった。それがまた別の本からの引用で…と、どこまでも続いていたら笑うしかない。
21. 謎の名無しさん
これ、クラシック音楽の板にも投稿したほうがいいよ。内容的には向こうの話題でもあるし。
22. 謎の名無しさん
「ちょうど書き上げたばかり」というところが一番あやしい。そこまで仕上がっていた大作なのに、このスレを読むかぎり、誰かに聴かせたとか演奏の予定があったとかいう話が出てこないのが引っかかる。
23. 謎の名無しさん(>>22への返信)
コピー機のない時代だから、清書が1部しかないのは珍しくなかったはず。写しを作る前に燃えたのなら、何も残らなくても不思議じゃない。完成していなかったと決めつけるのも早い気がする。
24. 謎の名無しさん
おすすめされていたヴァイオリンのロマンスを聴いてみた。派手さはないけど、歌うような旋律がずっと続く、いい曲だった。これを書けた人が40代で黙ってしまったのかと思うと、もったいない。
25. 謎の名無しさん
奥さんの側の話がどこにも出てこないのが気になる。伝わっているのは夫の友人の語りだけで、彼女がどう思っていたのかは誰も書いていない。「嫉妬に狂った妻」という型にはめるには、材料が少なすぎる。
26. 謎の名無しさん
夫妻は翌年に別居して、奥さんはパリへ移ったんだよね。で、夫のほうは離婚が成立する前に、別の女性とのあいだに子どもが3人。これで「悪魔」呼ばわりされるのが奥さんのほうなのか、とは思う。
27. 謎の名無しさん
『ヘッダ・ガーブレル』は学生のときに読んだ。原稿を火にくべるあの場面に、もとになった実話があるかもしれないなんて、考えたこともなかった。
28. 謎の名無しさん(>>27への返信)
順番が逆、という可能性もあると思う。回想が世に出たのは戯曲よりずっとあとなんだから、有名な場面のほうに引っぱられて、話が劇的に育ったのかもしれない。
29. 謎の名無しさん
完成していたかどうかは別にして、夫婦げんかで何かの楽譜が燃えた、という核くらいはあったんじゃないかな。まったくの作り話なら、女性から恋文が届いたなんて、夫に不利な部分までわざわざ入れないと思う。
30. 謎の名無しさん
真相がどちらでも、第1番と第2番が無事に残っているのは救いだね。スレ主がいちばんの出来だと言うその2曲から、まず聴いてみることにする。
未解決の謎
この謎がほどけないのは、出来事そのものを見た人の証言がひとつも無いからだ。伝わっているのは友人パウルセンの回想だけで、それも没後の1943年に活字になったものとみられる。書かれた時期は分からず、彼の回想録は正確さに難があるとも言われている。スヴェンセン本人の手紙に火の話が出てくるのか、妻サラが何か書き残しているのかは、今回調べた範囲では確かめられなかった。
一方で、残っている材料は「完成した大作が一瞬で灰になった」という筋書きと、あまりかみ合わない。作曲の衰えは出来事の前から本人が手紙でこぼしていて、交響曲のためとみられるスケッチは図書館に残り、その後も同じ作品に取り組んでいたとされる。何かが燃えたのだとしても、それが第3番のすべてだったとは考えにくい。ただし、残ったスケッチが、燃えたとされる曲と同じものなのかどうかも、まだ分かっていない。
忘れてはいけないのは、この話が長いあいだ「嫉妬深い妻が傑作を葬った」という形で語られてきたことだ。「悪魔のような女」は夫の友人の言葉であって、妻の側の声は残っていない。発端が夫に届いた恋文だったとされることも、離婚の成立より前に別の女性とのあいだに3人の子がいたことも、同じ重さで並べておく必要がある。
フィンランドのシベリウスは、1940年代に自宅で大量の自筆譜を焼いたとされる。こちらは妻アイノがその出来事を語っている。何が焼かれたのかの記録はないが、交響曲第8番も含まれていたとみる研究者が多い。スヴェンセンには、そうした身近な人の証言さえ無い。日本では、同じノルウェーのグリーグに比べて名前を聞く機会の少ない作曲家だが、投稿者は代表作の「ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス」(作品26)のほか、4曲ある「ノルウェー狂詩曲」や弦楽八重奏曲をすすめている。第3番がどんな曲になるはずだったのか。その手がかりは、コペンハーゲンの図書館に残るスケッチの中にしかない。
出典:r/UnresolvedMysteries 元スレ / 参考:ノルウェー人名事典、ノルウェー大百科事典、B. M. クリストフェルセンのCD解説(Chandos)と博士論文要旨、オスロ大学イプセン・センターの作品解説、米ウィスコンシン公共ラジオ、ウィキペディア英語版・ノルウェー語版


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