1948年12月1日の朝、南オーストラリア州アデレードの南に広がるソマートン・ビーチで、防波堤にもたれかかった男性が息絶えているのが見つかった。身なりはきちんとしていたが、身元を示すものは何ひとつ持っていない。上着もシャツもズボンも、メーカーや洗濯屋の名前が入ったタグは、すべて丁寧に切り取られていた。そして数か月後、ズボンの奥に縫い込まれた小さなポケットから、固く丸めた一片の紙が出てくる。そこに印刷されていたのは、ペルシアの詩集『ルバイヤート』※の最後を締めくくる二語——「タマム・シュッド」。意味は「終わった」。
※ ルバイヤート:11〜12世紀ペルシアの詩人オマル・ハイヤームに帰せられる四行詩集。英語圏ではエドワード・フィッツジェラルドの英訳が19世紀以来広く読まれ、「タマム・シュッド」はその末尾に置かれた語。
それから73年後の2021年5月19日、彼が眠るアデレードの西テラス墓地に重機が入った。墓標に刻まれているのは名前ではなく、ただ「身元不明の男」。DNAを採るための掘り起こしである。作業が始まったのは朝8時。世界中の掲示板が、その日ずっと実況で埋まった。
事件の概要
🗓️ 発生日:1948年12月1日(前夜から同じ場所で目撃されている)
🌫️ 場所:南オーストラリア州アデレード近郊、ソマートン・ビーチの防波堤
👤 被害者:氏名不詳の男性(推定40代前半、身長約180センチ)
🔍 状況:所持品に身元を示すものはなく、衣類のタグはすべて切り取られていた
🕯️ 発見/結末:死因も身元も特定できないまま1949年に埋葬。2021年5月19日にDNA採取のため掘り起こし
当時のアデレードは、戦争が終わって三年、まだ配給の記憶が残る港町だった。夏の入り口の海岸には夕方まで人がいて、実際、前の晩にも同じ場所で横になっている男を見たという証言が複数ある。いずれも「酔って眠り込んでいるのだろう」と思って通り過ぎていた。翌朝、男はほとんど同じ姿勢のまま冷たくなっていた。
検死では、栄養状態のよい、体格に恵まれた中年男性という所見が出た。目を引いたのは脚である。ふくらはぎの筋肉が通常よりかなり高い位置まで盛り上がっていて、バレエダンサーか、かかとの高い靴を長年履いてきた人の脚に近いと記録された。一方で肝心の死因は割り出せなかった。病理医は毒物によるものだと考えたが、当時の検査では何も検出されない。その後開かれた検視審問※も、身元・死因ともに「不明」と結論するほかなかった。
※ 検視審問:不審死や身元不明の死について、司法当局が公開の場で証拠と証言を調べ、死因や身元を認定する手続き。英豪など英国法の系譜を引く国で用いられる。
判明している事実
ズボンの隠しポケットに丸めた紙片
遺体の所持品は、櫛、ガム、タバコ、マッチ、使用済みのバス乗車券、そして使われないまま残っていたヘンリービーチ行きの列車の切符——生活の匂いはするのに、名前につながるものは一つもなかった。決定的な発見はその後である。ズボンにあった時計用の小さな隠しポケットの奥から、固く巻かれた紙片が出てきた。印刷されていたのは「タマム・シュッド」の二語だけだった。
数か月後に届いた、最後のページのない詩集
紙片が報道されると、一人の男性が警察に本を持ち込んだ。事件の少し前、ソマートン・ビーチにほど近い場所に停めていた自分の車の後部座席に、見覚えのない本が放り込まれていたのだという。その本は『ルバイヤート』で、最後のページが破り取られていた。破れ目の形も紙質も、遺体のポケットにあった紙片と一致した。
裏表紙に残っていた文字列と電話番号
その本の裏表紙には、薄い鉛筆書きが残っていた。一つは大文字のアルファベットを五行ほど並べた、意味の取れない文字列。もう一つは、電話番号である。番号をたどると、浜辺から歩いていける距離に住み、看護師として働いていた女性に行き着いた。彼女は資料上「ジェスティン」と呼ばれてきた人物で、警察の聞き取りに対し、この男性を知らないと答えている。文字列のほうは、その後70年以上にわたって暗号解読の専門家や愛好家が挑み続けているが、解けたと認められた例はない。
すべてのタグが切り取られた服と、駅のスーツケース
遺体の衣類からはタグ類が一枚残らず切除されていた。さらに捜査の過程で、アデレード駅の手荷物預かり所に11月30日付けで預けられた、引き取り手のないスーツケースが見つかる。中の衣類もほとんどがタグを切られていたが、数点だけ「キーン」と読める名前が残されていた。その名前の人物は、いくら探しても実在が確認できなかった。
73年後の掘り起こしと、翌年に出た名前の候補
2021年5月19日、遺体は西テラス墓地から掘り起こされた。骨は完全な形で回収され、状態も「まずまず良好」と報じられている。翌2022年、掘り起こしを長年働きかけてきたアデレード大学のデレク・アボット教授と、アメリカの系譜研究者のチームが、DNAと系譜解析※の結果から、この男性は1905年にメルボルンで生まれた技術者カール・「チャールズ」・ウェッブという人物である可能性が高いと発表した。ただしこれはあくまで研究チームの発表であって、南オーストラリア州の警察・検視当局による正式な確定とは別のものである。当局側は独自の鑑定を続けるとしていた。なお研究チームは、この解析に使ったのは掘り起こした遺骨ではなく、1949年に作られた石膏の顔型に残っていた毛髪から得たDNAだったと説明している。
※ 系譜解析:故人のDNAを民間の遺伝子データベース上の登録者と照合し、共通の祖先をたどって家系図を組み直すことで身元を絞り込む手法。近年、身元不明遺体の同定や古い事件の捜査で成果を上げている。
主な仮説
仮説1:自ら命を絶った
もっとも素直な読み方である。「終わった」の一語を持ち歩き、海の見える場所で息を引き取った。外傷はなく、争った跡もない。ただし引っかかる点はある。遺体のそばからは、毒物を入れていたはずの容器も、遺書らしきものも見つかっていない。そして何より、決別の言葉を人目につかない隠しポケットの奥にしまい込むというのは、誰かに読ませたい人間のやることではない。
仮説2:電話番号の女性をめぐる、私的な事情
詩集に書かれていた番号の主が、遺体発見現場から歩ける距離に住んでいた——この一点だけで、事件は長く「男女の話」として語られてきた。彼女は男を知らないと答えたが、面会の際の様子が不自然だったと記した捜査員もいる。ただし、確認できているのはそこまでである。後年ネット上で広まった血縁をめぐる話の多くは、本人が認めたものではなく、裏の取れた事実として扱うべきものでもない。
仮説3:冷戦初期の諜報がらみ
身元を消した男、解読できない文字列、1948年という時期。条件が揃いすぎているため、スパイ説は事件発覚当初から繰り返し語られてきた。当時の南オーストラリアには新設されたばかりのロケット実験場があり、この土地が急に軍事的な意味を帯び始めていたという背景もある。ただしこの説を支える直接の物証は、これまで一つも出ていない。「説明がつかない」ことが、そのまま「諜報の証拠」として扱われてきた面が大きい。
仮説4:事情はごく平凡だった
身元を隠して旅をする理由は、諜報以外にいくらでもある。借金、破綻した結婚、家族に知られたくない事情。タグを切ったのは本人で、駅に荷物を預けたのも本人、そして死因は病気か、自ら選んだものだった——この読み方なら、不可解な要素の大半は説明がつく。2022年に名前の候補として挙がった人物も、研究チームの説明では暗号とも諜報機関とも縁のない民間の技術者だった。
海外の反応
1. 謎の名無しさん
11歳のころは「今日はレーザータグ行ってピザ食って泊まりでマリオカート朝までやるぞ」でテンションが上がっていたのに、30歳の今は「70年前に埋められた人を掘り起こして、誰なのか分かるかもしれない」でこのテンションだよ。人生ってこうなるのか。
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
いや30過ぎてもピザと朝までマリオカートは普通に最高だが?両方いけるだろ。実際、今朝からニュース見ながらピザ食ってる。
3. 謎の名無しさん
今まさに西テラス通りの渋滞にはまってる。墓地のフェンス越しにテレビのカメラがずらっと並んでいて、掘っている場所には青いシートがかぶせてある。まさか通勤路がこの事件の現場になる日が来るとは思わなかった。
4. 謎の名無しさん(>>3への返信)
こっちは地元局の生中継をつけっぱなしにしている。淡々と土を掘っているだけの映像なのに、まったく目が離せない。頼むから使えるDNAが出てくれ。
5. 謎の名無しさん
DNAが採れたと確認できるまでは埋め戻さないでほしい。この事件だけは中途半端に終わらせないでくれ。73年待ったんだから、あと数日くらいみんな待てるだろう。
6. 謎の名無しさん
水を差すつもりはないけど、1949年に埋めた遺体から今さら使えるDNAが出るかは相当微妙だと思う。土の水分次第で骨のDNAはかなり壊れる。歯がどれだけ残っているかが分かれ目じゃないかな。
7. 謎の名無しさん(>>6への返信)
この遺体は保存のために防腐処理されているはずで、それがどう出るかも読めない。処理に使う薬剤はDNAを傷めることがあるらしいから、良い方に転ぶか悪い方に転ぶか、開けてみるまで分からない。
8. 謎の名無しさん
記事が更新された。数時間掘ったところで骨が出てきて、その骨が「身元不明の男」のものだと示す識別票も確認できたそうだ。ちゃんと本人が出てきた。
9. 謎の名無しさん(>>8への返信)
続報だと遺骨は欠けもなく揃っていて、状態も「まずまず良好」、DNA採取にも前向きだという話になっている。今日の時点で望みうる最良の展開だと思う。
10. 謎の名無しさん
気になったんだけど、骨が「見つかった」という書き方はどういうことなんだ。棺に納めて埋めてあるなら、掘ればそのまま棺が出てくるはずでは。何時間も掘る話になっている時点で少し引っかかる。
11. 謎の名無しさん
この事件は好きだけど、正直、結果はみんなが期待しているほど面白くならないと思う。パースあたりに住んでいた平凡な男が旅先で倒れただけ、というオチが一番ありそうだ。
12. 謎の名無しさん(>>11への返信)
ふだんならその冷静な意見に賛成するんだけど、この件だけは引っかかる。隠しポケットに詩集の切れ端、その詩集が浜辺のすぐ近くに停めてあった車から出てきて、裏表紙には近所に住む人の電話番号。全部が偶然というには、噛み合いすぎている。
13. 謎の名無しさん
スパイ説だけは何十年も盛られ続けていると思う。冷戦の初期で、身元が消されていて、意味の取れない文字列がある——それだけで諜報の話にしたがる人が多すぎる。裏づけになる物は一つも出ていないのに。
14. 謎の名無しさん(>>13への返信)
盛られているのは同意する。ただ当時の南オーストラリアには新設されたばかりのロケット実験場があって、この土地が急に軍事的な意味を持ち始めた時期ではあった。話が膨らむ土壌はあったんだと思う。物証がないのはその通りだけど。
15. 謎の名無しさん
名前ももちろん知りたいが、自分が一番気になっているのは裏表紙の文字列のほうだ。あれが何なのかは、DNAが採れたところで分からないままなんだよな。
16. 謎の名無しさん(>>15への返信)
あれは暗号じゃないと思っている。専門家が何十年やっても解けないなら、そもそも解ける構造になっていない可能性が高い。詩か何かの各行の頭文字を書き出したメモか、酔って書いた走り書きか。みんなが意味を探しすぎているだけかもしれない。
17. 謎の名無しさん
詩集の最後の語が「終わった」で、それをわざわざ縫い込んだポケットの奥に隠して持ち歩いていた。小説なら「できすぎだ」と言われる筋書きだが、これが実際に起きたことだというのが怖い。
18. 謎の名無しさん
ノルウェーの「イスダルの女」を思い出す。あちらも身元が分からず、服のタグが切られていて、名前のない墓に眠っている。こっちが動いたなら、あの事件にも望みが出てくるかもしれない。
19. 謎の名無しさん
「イスダルの女」ならBBCのポッドキャスト(Death in Ice Valley)がよくできている。当時の捜査資料を一つずつ当たっていく作りで、安易な憶測に逃げないのがいい。
20. 謎の名無しさん
自分がこの事件を知ったのもポッドキャストだった。Casefile(ケースファイル)の回が入り口で、そこから抜けられなくなった。まさか生きているうちに掘り起こしのニュースを見ることになるとは思わなかった。
21. 謎の名無しさん
事件そのものには興味があるし、どんな未解決事件も解かれるべきだとは思う。ただ、この件には長年かなりの金と人手が注がれてきた一方で、いま家族が返事を待っている行方不明事件や、検査に回されないまま眠っている証拠が山ほどあるはずで、優先順位としてはどうなんだろうとも思う。
22. 謎の名無しさん(>>21への返信)
言いたいことは分かる。ただ聞いた話では、今回の掘り起こしの費用は通常の捜査予算とは別に用意されたらしい。それに、身元不明の遺体に名前を返す技術はそのまま他の事件にも回っていく。今日くらいは素直に喜ばせてくれ。
23. 謎の名無しさん
せっかくだから自分の予想を書いておく。彼はアメリカ東海岸の出身で、元軍人。事務方かそれに近い仕事をしていて、太平洋方面に従軍してマラリアにかかり、その治療薬が体に合わなかった——というのが自分の読み。外れていたら笑ってくれ。
24. 謎の名無しさん(>>23への返信)
こういう予想合戦は楽しいんだけど、数年後に一部が当たっただけで「俺は最初から言っていた」と言い出す人が必ず出てくるのが困りものだ。予想は予想として、外れた分もちゃんと残しておこうな。
25. 謎の名無しさん
解決してほしい気持ちと、このまま謎のままでいてほしい気持ちが半々でつらい。答えが出た瞬間に、何十年もみんなで転がしてきた話題が終わってしまう。アメリカのロッキー山脈に隠されていた宝が見つかったというニュースを見たときも、同じ気分になった。
26. 謎の名無しさん
この事件と「箱の中の少年」は、いつか名前が戻ってほしいと願い続けてきた二つだった。どちらも誰かの家族だったはずなのに、墓に名前がないというのが一番きつい。
27. 謎の名無しさん(>>26への返信)
「箱の中の少年」のほうは、あれから何年かして名前が判明したんだよ。あの子には名前が戻った。だからこっちにも望みはあると思っている。
28. 謎の名無しさん
落ち着け、あれはトム・ハンクスが役作りのために73年寝ているだけだから、そっとしておいて埋め戻したほうがいい。撮影が終われば自分で出てくる。
29. 謎の名無しさん
誰であれ、この人に名前が戻ることを願っている。73年ものあいだ自分の墓に自分の名前がないというのは、それだけで十分に気の毒だ。事件の結末がどうなろうと、そこだけは片付いてほしい。
30. 謎の名無しさん(>>29への返信)
名前が戻ったとしても、なぜ夏のはじまりの浜辺で防波堤にもたれて死んでいたのかは、たぶん最後まで分からないままだと思う。それでも墓標が書き換わるなら、それは十分に意味のあることだ。
未解決の謎
2022年に名前の候補が出て以降、この事件は「解決済み」として紹介されることが増えた。だが実際に片付いたのは、いくつもある謎のうちの一つだけである。
まず、死因が分からない。1948年の検死は毒物を疑いながら何も検出できず、73年後に掘り起こされた遺骨から死因を示す所見が確認できたという話も出てきていない。骨に痕跡を残さない形の死は、技術がどれだけ進んでも後から証明することが難しい。
次に、裏表紙の文字列が説明されていない。DNAは彼が誰だったのかを教えてくれるが、彼が何を書き残したのかまでは教えてくれない。同じことが、あの電話番号にも言える。番号の主だった女性はすでに亡くなっている。関係があったのか、なかったのか、あったとして何だったのか——本人の口から確かめる手段は、もう残っていない。
そしてもう一つ。彼はなぜ、服のタグを一枚残らず切り落としたのか。あるいは、誰が切り落としたのか。身元を消したいのであれば、詩集の切れ端をわざわざ隠しポケットの奥にしまって持ち歩くのは矛盾している。あれは誰かに読ませるつもりのものだったのか、それとも自分のためだけの一語だったのか。
「タマム・シュッド」は「終わった」という意味の言葉だ。だが少なくともこの事件については、まだ終わっていない。


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