3世紀、マニ教を開いた預言者マニは「世界には四つの大いなる王国がある」と説いたと伝えられる。ペルシア、ローマ、中国とされる国、そしてアフリカのアクスム※だ。紅海の港から金や象牙を送り出し、自前の金貨を発行し、4世紀にはキリスト教を国の宗教にした王国である。
※ アクスム:現在のエチオピア北部からエリトリアにかけて栄えた王国。首都も同じアクスムという名で、町はいまもエチオピア北部のティグレ州にある。
その大国が、6世紀から7世紀にかけて少しずつ力を失っていった。硬貨は軽くなり、刻まれた文字は崩れ、やがて発行そのものが止まる。首都は捨てられ、王たちの名前も在位の順番も、記録の中でぼやけていく。何が衰えの始まりで、何がとどめだったのか。確かな答えはまだない。手がかりになる文字の記録が少なすぎるのだ。ある歴史家は、アクスムの史料を「乏しいにもほどがある」と評している。
2021年、米国の掲示板Redditの未解決ミステリー板に、この謎を掘り下げた長文の投稿が立った。原因の候補はいくつもあるのに、どれも確かめる史料がない、という謎だ。
事件の概要
🗓️ 時代:紀元1世紀ごろに1人の王が治める国にまとまり、4世紀に勢力を広げた。7世紀に貨幣の発行が止まり、首都アクスムは8世紀以降に政治の中心でなくなった
🌫️ 場所:現在のエチオピア北部とエリトリア。紅海沿岸の港アドゥリスで地中海やインド洋と結ばれ、6世紀にはイエメンにも支配が及んだ
👤 関わった人々:キリスト教を受け入れたエザナ王(4世紀)、イエメンへ遠征したカレブ王(6世紀)、王国の終わりに攻め込んだと伝わる女王グディト(実在は疑われている)
🔍 何が起きたか:硬貨が減って軽くなり、やがて途絶えた。首都は縮み、唐突に捨てられたような跡を残して、政治の中心は南へ移った
🕯️ 現状:衰えがいつ始まり、いつ終わったのか、何が主な原因だったのかは決着していない。アクスムの遺跡は1980年にユネスコの世界遺産に登録された
アクスムの強みは、国土の広さより交易にあった。投稿者によれば、主な輸出品は金と象牙で、ほかに塩、奴隷、べっ甲、乳香、サイの角、エメラルドなどがあった。エチオピアの高地には毎年夏に雨季が来て、小麦や大麦、テフ※、モロコシが育つ。王は「王の中の王」を名乗り、周りの部族を従えて貢ぎ物を納めさせた。
※ テフ:エチオピア原産の、ごく小さな粒の穀物。いまもエチオピアの主食インジェラ(薄く焼いた発酵パン)の材料になっている。
文字もあった。アクスムの言葉ゲエズ語の文字は、形を変えながらいまも使われ、エチオピア正教会の典礼ではゲエズ語そのものが唱えられている。ところが、アクスムの人々が石に刻んだのは、戦の勝利をたたえる短い碑文がほとんどだった。暮らしぶりや詳しい歴史を書きとめた記録は、ほとんど残っていない。投稿者は、手がかりはエチオピアに伝わる口承、外国の書き手が残した記録、発掘の3つしかないと書く。なかでも頼りになるのが、王たちが発行した硬貨だという。
判明している事実
金貨を発行した、数少ない古代国家の一つ
アクスムは270年ごろ、エンデュビス王の時代に自前の硬貨を造りはじめた。金・銀・銅の3種類があり、金貨にはおもにギリシャ語が刻まれた。当時パリ第1大学の博士課程にいたヨハネス・ゲブレセラシエ氏の論文(2011年)は、古代に金貨を発行した国は、ローマ、ペルシア(規模は小さい)、アクスム、北インドのクシャーナ朝くらいだったと書いている。
4世紀、世界で初めて十字架を刻んだ硬貨
4世紀、エザナ王がキリスト教に改宗し、アクスムはキリスト教を国の宗教にした。それまで硬貨に刻まれていた三日月と星は、十字架に置き換わった。硬貨に十字架が刻まれたのは、これが世界で初めてとされる。王の改宗は、「エザナ王の碑文」と呼ばれる石碑からもうかがえる。
6世紀のイエメン遠征と、帰ってこなかった兵士たち
520年代※、カレブ王は紅海を渡り、イエメンのヒムヤル王国に攻め込んだ。キリスト教徒への迫害をやめさせるという名目だった。遠征には勝ったが、東ローマの歴史家プロコピオスは、その後のことをこう書いている。兵士の一部は、そこが「たいへん豊かな土地」だったので、国へ帰らずに残った。のちに王が送った討伐軍も、「豊かな土地にとどまりたい」と望み、戦いが始まると指揮官を殺して相手側についたという。アクスム側のイエメン支配は、570年代にペルシアの軍勢によって終わった。
※ 年代について:元スレの本文はエザナ王の改宗を450年ごろ、カレブ王の遠征を600〜700年ごろとしているが、この記事では一般的な年代(改宗は4世紀の前半から半ば、遠征は520年代)に合わせた。
硬貨は数が減って軽くなり、やがて途絶えた
後期の王たちの硬貨は、数が少なく、重さが軽くなり、刻まれたギリシャ語も崩れていく。投稿者が引く研究によれば、1枚しか残っていない種類が多く、順番に並べることさえ難しい。見つかる範囲も狭まり、投稿者はこれを支配と交易が細った跡と読む。発行は7世紀から8世紀の初めにかけて途絶えた(時期は資料によって幅がある)。首都アクスムは、研究者が「後期アクスム期」と呼ぶ450〜750年ごろに急速に縮み、まわりには小さな村が点在するだけになった。考古学者のキャスリン・バード氏やデイヴィッド・フィリップソン氏は、首都が捨てられたのは唐突だったとみている。
500年ごろから進んだ乾燥と、700年以降の土の流出
1970年代にアクスム周辺を調べた米国の地形学者カール・バッツァー氏は、人口が増えて畑が広がり、土が流れ出して農地が荒れたと唱えた。その後、エチオピア北部のアシェンゲ湖の堆積物を調べた研究(2009年)は、500年ごろを境に「急速に乾燥が進んだ」ことを示した。英語版ウィキペディアのまとめでは、アクスム周辺の土の流出は650年ごろに始まって700年以降に深刻になり、730〜760年ごろには雨の降り方も不安定になった。
主な仮説
仮説1:気候の乾燥と、土地の使いすぎ
よく挙がる説の一つ。500年ごろから乾燥が進んで収穫が減ったうえ、増えた人口を養おうと畑を広げ続け、燃料の木炭をとるために森を切ったことで、土がやせて流れ出した、という筋書きだ。ただ、反論もある。考古学者フェデリカ・スラス氏は汎アフリカ考古学会での発表で、アクスム周辺の農村では紀元前4千年紀の半ばから近世まで人が住み続け、「動的な安定」が保たれていたと述べた。カナダのサイモン・フレーザー大学が紹介する東ティグレ考古学プロジェクトも、環境が盛衰を左右したという想定はほぼ推測にとどまってきたとして、土から過去の雨や植生を復元する調査を続けている。
仮説2:紅海の交易から締め出された
アクスムは、ぜいたく品の多くを地中海から輸入し、金や象牙を売って栄えた。その交易路が次々にふさがれた、という説。570年代にイエメンをペルシアに奪われ、614〜619年ごろにはエルサレムとアレクサンドリアがペルシアの手に落ちた。続いてイスラム勢力が広がり、642年にはエジプトがアラブの軍勢に征服される。もっとも、アクスムとイスラムの関係は敵対だけでは語れない。615年には、メッカで迫害された初期のムスリムがアクスムに逃れ、保護を受けている。投稿者も、「イスラムの要因」は大きく見積もられすぎてきた、という意見があると紹介している。
仮説3:遠征の消耗と、従えていた部族の離反
投稿者によれば、カレブ王のイエメン遠征は莫大な費用がかかり、評判もよくなかったらしい。ゲブレセラシエ氏は、兵士たちが帰らなかったのは、干ばつや疫病に苦しむ故郷より「豊かな土地」を選んだからではないか、と問いかけている。また、アクスムは従えた部族の長に忠誠を誓わせたあとは、ほぼ自由にさせていたとされ、投稿者はこれが裏目に出たとみる。王国の外縁でベジャ人やアガウ人が騒乱を起こしたという断片的な記述があり、焼け落ちた跡のある町の遺跡も見つかっている(反乱によるものかは分からない)。首都アクスムの台座の碑文には、王国の終わりごろ「ハツァニ※・ダニエル」という人物が王から実権を奪ったと読める記述がある。
※ ハツァニ:支配者や将軍を指す称号。ダニエルの碑文の年代ははっきりしないが、9世紀より前とみられている。
仮説4:6世紀に大流行した疫病
541〜542年、東ローマ帝国を中心に「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれる疫病が大流行した。プロコピオスは、エジプトのペルシウムから始まったと書いた。一方、エデッサのヤコブのように、シリア語で書かれた記録の中には、疫病は「クシュ(エチオピア)」で起きて東方へ広がったとするものがある。ゲブレセラシエ氏は、こうした記録や南アラビアの碑文を読み直し、疫病にイナゴ、飢饉、移住、部族間の争いが重なってアクスムの衰えを早めたと論じた。ただし、当時の「エチオピア」はエジプトより南の地域を広く指す言葉で、アクスムのこととは限らない。アクスム側の碑文に疫病の記録はほとんどなく、論文も、新しい発見ではなく既存の史料の読み直しだと断っている。
海外の反応
1. 謎の名無しさん
こんな文明があったこと自体、初めて知った。しかも思ってたより新しい。イスラムが興ったのと同じ時代、同じ地域なんだね。1500年前ってそこまで大昔じゃないのに、文字の記録がこんなに少ないのは驚きだ。
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
アクスムと呼ばれるのがその時代なだけで、この土地の歴史自体はもっと古いよ。ずっと前にヘロドトスも、エジプトの南に住む人々のことを書いている。
3. 謎の名無しさん
自分がアクスムを知ってたのは、歴史戦略ゲームの『トータル・ウォー:アッティラ』で選んで遊べる勢力だったから。地図の端で紅海を押さえてる、妙に手ごわい国って印象だった。
4. 謎の名無しさん
中1の世界史で、教科書の1ページちょっとだけアクスムと「ノク」という国を習った。大学で歴史を専攻して大学院まで行ったのに、それっきり一度も出てこなかった。アフリカ史の扱いの偏りが話題になるたびに、この2つを思い出す。
5. 謎の名無しさん(>>4への返信)
ノクって、今のナイジェリアのあたりで見つかってる文化だよね。アクスムとは場所がずいぶん離れてるから、張り合ってた国ってことはないと思う。教科書のまとめ方が雑だったのかも。
6. 謎の名無しさん
周りの部族を奴隷として売るのが大きな収入源だったのに、キリスト教国になるとキリスト教徒は売れない。だから、わざと周りを改宗させずに放っておいた、って話を読んだことがある。
7. 謎の名無しさん(>>6への返信)
奴隷が輸出品だったのは投稿にも書いてあるけど、「わざと改宗させなかった」まで言える史料はあるの? 結果からさかのぼって動機をこしらえてる気がする。
8. 謎の名無しさん
エジプト人の夫と一緒に最後まで読んだ。3世紀にマニが「ローマ、ペルシア、中国と並ぶ四大国」に数えたほどの国なのに、知ってる人がほとんどいないのは寂しいね。
9. 謎の名無しさん(>>8への返信)
ただ、アクスムを大国と呼んでいる記録は、そのマニの文章くらいなんだよ。マニは、世界に出回っていた貨幣の重みで国を並べたのかもしれない。ローマやペルシアと比べたら、アクスムはだいぶ離れた4番手だと思う。
10. 謎の名無しさん
実際、イエメンの支配もペルシアが止めると決めたら終わったしね。ペルシアにとっては片手間の戦いだったのに、アクスムにとっては外交の大きな柱だった。力の差はそこに出てる。
11. 謎の名無しさん
領地が広すぎたうえに分割相続※で国がバラバラになったんだろ。『クルセイダーキングス』で何度も見た光景だ。
※ 分割相続:王の死後、領地を息子たちで分ける相続。中世が舞台の歴史ゲーム『クルセイダーキングス』では、これで国が割れるのが定番。
12. 謎の名無しさん(>>11への返信)
ゲームの話はさておき、アクスムの王位がどう受け継がれたかは、ほとんど分かってないんだよね。カレブ王より後の王は碑文がどんどん少なくなって、在位の順番さえあやふやらしい。
13. 謎の名無しさん
投稿者が最初、硬貨の絵柄を英語で「コーンの穂」と書いてて、トウモロコシかと思った。アメリカ大陸の作物だから、この時代のアフリカにはまだないよね。英語の「コーン」は昔、小麦や大麦も含めた穀物全般を指してた。古代の硬貨に麦の穂を刻むのはよくあることだよ。
14. 謎の名無しさん(>>13への返信)
コンビーフ(corned beef)の「コーン」も同じだよ。牛肉を漬け込む粗い塩の粒が、穀物の粒くらいの大きさだったから。
15. 謎の名無しさん
結局、全部の組み合わせじゃないかな。不作が何年か続けば人は弱って病気にかかりやすくなるし、食べ物が減れば残りを奪い合って反乱が起きる。そんな国からは商人も離れていく。腹を空かせた兵士に、広い国境を守らせるのは無理だよ。
16. 謎の名無しさん
答えはイスラムだろ。謎でも何でもない。イスラムの軍勢が、通り道にあった国を全部飲み込んだ。それだけの話だ。
17. 謎の名無しさん(>>16への返信)
それなら、メッカやメディナ、クライシュ族みたいに早くからイスラムと関わった土地の記録はたっぷり残ってるのに、アクスムの記録だけ消えたのはなぜ? それにアクスムは615年に、迫害されたムスリムを受け入れた側だよ。
18. 謎の名無しさん
アクスムの時代に、エチオピアの高地がイスラムの軍勢に征服されたわけじゃないんだよね。その後もザグウェ朝のようなキリスト教の王朝が続いた。交易で締め出された影響はあっても、軍に滅ぼされた話とは違うと思う。
19. 謎の名無しさん
投稿を読むまで、契約の箱※があるとされる教会が去年の暮れに襲われたなんて知らなかった。本当に箱があったのか、あったなら今どこにあるのか、気になって仕方ない。
※ 契約の箱:旧約聖書で、モーセが神から授かった十戒の石板を納めたとされる箱。「アーク」とも呼ばれる。
20. 謎の名無しさん(>>19への返信)
見られるのは番人の修道士1人だけ、という時点でお察しだと思う。誰も確かめられない宝物は、「ある」と言い続けるのがいちばん強いからね。
21. 謎の名無しさん(>>20への返信)
自分は、少なくとも「何か」はあると思ってる。代々の番人が一生をかけて守ってきたものなんだから、中身が聖書のとおりの箱じゃなくても、とんでもなく古い聖遺物なのは確かなんじゃないか。
22. 謎の名無しさん
アクスムはアフリカと中東をつなぐ要だった。350〜400キロほど行けば青ナイルの源流のタナ湖があって、そこから舟に乗れば、いずれエジプトに出る。全部つながってるんだ。
23. 謎の名無しさん
投稿にある「口承の歴史」の中身が気になる。文字の記録ほど当てにならないのは分かるけど、王国を知る手がかりくらいにはなるんじゃないかな。
24. 謎の名無しさん(>>23への返信)
口承で有名なのが女王グディトの話だね。王国の終わりに攻め込んで、教会や書物を焼き、最後の王を倒したと伝わる。ただ、実在したかどうかからして疑われてる。
25. 謎の名無しさん
ソロモン王とシバの女王の息子メネリク1世がエチオピア王家の祖で、契約の箱もメネリクが持ち帰った、っていうのがエチオピアの伝承だよね。伝説なのは承知だけど、歴代の王家がこの血筋を名乗ってきたのは面白い。
26. 謎の名無しさん(>>25への返信)
そもそもシバの女王が実在したかどうかが怪しいからね。南アラビアのサバ王国だとする説もあれば、エチオピアだとする説もある。伝説の重ね書きだと思って読むのがいいよ。
27. 謎の名無しさん
この投稿が立ったのはコロナ禍の真っ最中だったから、疫病説を読むと妙に生々しい。6世紀の疫病も、交易の道に乗って広がったんだよね。人と物が行き交う国ほど、真っ先にやられる。
28. 謎の名無しさん
古代のコインを集めてる身としては、アクスムの金貨は憧れの的だよ。刻まれたギリシャ語が時代とともに崩れていくのが、そのまま国の弱り方を映してるみたいで切ない。
29. 謎の名無しさん
気候説は便利すぎて、ちょっと警戒してる。文明が滅ぶたびに「乾燥した」「土がやせた」と言われるけど、同じ条件で持ちこたえた国もあるわけで。その差がどこにあったのかを知りたい。
30. 謎の名無しさん
アクスムの石柱群を見に行ったことがある。一度ローマへ持ち去られて、返ってきた石柱もあった。あんなものを切り出して立てた国が、自分たちの歴史をほとんど書き残さなかったなんて、いまだに信じがたい。
未解決の謎
アクスムの衰えは、ある日突然の滅亡ではなかった。6世紀にイエメンで消耗し、570年代にその足場を失い、7世紀には貨幣の発行が止まる。首都は唐突に捨てられたような跡を残し、政治の中心は南へ移った。ゲブレセラシエ氏は、9世紀かその少しあとには、アクスムが、かつて貢ぎ物を納めていた首長たちの争う場になっていたとみる。11世紀か12世紀にザグウェ朝が興るまで、この土地の歴史はほとんど闇の中だ。衰えがいつ始まり、王国がいつ終わったのかという問いには、幅のある答えしかない。
原因の候補も出そろっている。気候、土地の荒廃、交易路の喪失、遠征の消耗、地方の離反、疫病。投稿者もコメント欄の一部も、いくつもの要因が重なったとみている。ゲブレセラシエ氏も、災いが重なって悪循環を生んだと論じた。それでも、どの要因がどれだけ効いたのかを量る材料がない。アクスムの農業がどう営まれていたのかさえ、まだよく分かっていないのだ。
王国が残した伝説も、謎のまま残っている。エチオピア正教会は、旧約聖書の「契約の箱」が、アクスムのシオンの聖マリア教会の敷地にある礼拝堂に納められていると主張している。伝承では、ソロモン王とシバの女王の息子メネリク1世がエチオピアへ持ち帰ったものだ。礼拝堂に入れるのは、そこに住む番人の修道士ただ1人。教会の総主教でさえ入れないとされ、外部の誰も中を確かめたことはない。2020年11月末、エチオピア北部の内戦のさなかに、アクスムでは数百人規模の住民が殺害された。アムネスティ・インターナショナルなどの人権団体は、エチオピア政府軍とともに戦っていたエリトリア軍によるものと報告している(エリトリアは否定。元スレは当初の報道に沿って「エチオピア軍」と書いていた)。研究者からは教会と箱の安否を案じる声が上がったが、箱については今も、外から確かめるすべがない。
4世紀に立てられた高さ24メートルの石柱は、1937年にイタリア軍がローマへ持ち去り、2005年に返還されて、2008年にアクスムでふたたび立てられた。石柱を立て、金貨を鋳造し、紅海の向こうまで兵を送った国が、なぜ力を失ったのか。答えは、まだ高原の土の中に埋まっている。
出典:r/UnresolvedMysteries 元スレ / 英語版ウィキペディア「Kingdom of Aksum」 / ヨハネス・ゲブレセラシエ「アクスム帝国の衰退と崩壊の一因としての疫病」(ITYOPIS 第1号、2011年) / 参考:英語版ウィキペディア(Axum、Aksumite currency、Obelisk of Axum、Axum massacre)、サイモン・フレーザー大学、汎アフリカ考古学会


コメント