西暦1300年から1400年ごろ、メキシコ盆地にたどり着いたアステカの人々は、とてつもなく大きな都市の廃墟に出くわした。まっすぐに延びる大通りと、巨大なピラミッド群。住む人はとうにおらず、建物の一部は焼け落ちていた。廃墟になってもなお人を圧倒するその姿に、彼らはこの地を「テオティワカン」と名付けた。一般には「神々の生まれた場所」と訳される名前だ。
ただし、この都市を築いたのはアステカではない。彼らが来る何百年も前に、別の誰かが築き、メソアメリカ※最大の都市に育て上げ、そして捨てていった場所だった。本来の名前も、その名で呼んでいた人々の言葉も、いまでは分からない。テオティワカンを築いたのは誰で、人々はなぜこの都市を去ったのか。
※ メソアメリカ:メキシコ中南部から中米の北西部にかけて、スペイン人がやってくる前に独自の文明が栄えた地域の呼び名。マヤやアステカもこの文化圏に含まれる。
事件の概要
🗓️ 時代:紀元前600年ごろに最初の集落ができ、450年ごろに最盛期を迎えた。6世紀ごろから衰え、やがて放棄されたとみられる(時期や経過には諸説ある)
🌫️ 場所:メキシコ中部のメキシコ盆地。アステカの都テノチティトラン(現在のメキシコシティ中心部)とは別の都市
👤 築いた人々:不明。複数の民族が暮らす多民族都市だったことまでは分かっている
🔍 状況:最盛期の人口は25万人を超えていた可能性があり、メキシコ盆地の人口の9割以上が集まっていたとされる。城壁や軍事施設の跡は見つかっていない
🕯️ 結末:政治と宗教の中心だった建物が焼かれ、都市は放棄された。のちにアステカの人々が廃墟を見つけ、自分たちのものとした
最初の集落が現れたのは紀元前600年ごろとされる。紀元前300年ごろには大きな集落がいくつもでき、テオティワカンは爆発的に膨らんでいった。やがてメソアメリカ最大の都市となり、その規模を上回る都市は、およそ1000年後にアステカが現れるまで出てこなかった。最盛期とされる450年ごろには、11.5平方マイル(約30平方キロメートル)を超える範囲に、25万人以上が暮らしていた可能性があるという。
街は緻密な計画のもとに造られていた。通りと南北方向の壁はすべて15度の傾きでそろえられ、主要なピラミッドは太陽や月の動きに合わせて配置され、いずれも「死者の大通り」として知られる幅の広い中央の通りに沿って並ぶ。太陽のピラミッドは天然の溶岩洞※の真上に建てられており、この洞窟を目当てに都市の場所が選ばれたのではないか、という見方もある。
※ 溶岩洞:流れ出た溶岩の表面が先に冷えて固まり、内側の溶岩が抜けたあとに残るトンネル状の洞窟。
なお、元スレのタイトルは「スペイン人がアステカの都市テオティワカンを征服した」という趣旨で始まるが、これは正確ではない。アステカの人々が来たときテオティワカンはすでに廃墟で、スペイン人に征服されたアステカの都は、別の都市テノチティトランである。
判明している事実
城壁も軍事施設もない多民族都市だった
テオティワカンは民族ごとの区画に分かれ、さらに上級エリート、中間エリート、労働者という3つの階級に分かれていた。労働者の多くは、出身の民族ごとにまとまったスラム街で暮らしていた。これほど大きく力のある都市でありながら、防御施設や軍事施設の跡は見つかっていない。多くの民族が集まった理由としては、近くの都市クイクイルコ※がシトレ火山と、それに先立つポポカテペトル山の噴火で壊滅し、行き場を失った人々が流れ込んだ、という説がある。
※ クイクイルコ:メキシコ盆地にあった古い都市。一時はテオティワカンと肩を並べる規模だったとされる。
住民の最大3分の1が職人だった
遺跡からは、陶工や宝飾職人が大勢暮らしていた跡や、大量の黒曜石の道具が見つかっている。壁画は最大で1万点にのぼるとされ、住民の最大3分の1が職人だったという。その芸術の隆盛は、イタリアのルネサンスにたとえられることもある。職人たちが大量に生み出す完成品が都市の経済を支え、テオティワカンは地域の交易を握った。各地に行政官を置いたのか、要所に拠点を築いたのか、その仕組みには議論があるが、テオティワカンの土器がほかの集落から、ほかの集落の土器がテオティワカンから見つかっており、つながりがあったこと自体は疑いようがない。
焼かれたのは政治と宗教の中心だった
上級エリートや中間エリートの建物の多くには、焼かれ、壊された跡が残る。調査が進むと、これが手当たり次第の破壊ではなかったことが分かってきた。焼かれていたのは、死者の大通り沿いの公共の建物や彫刻、神殿や宗教的な図像など、政治的・宗教的に重要なものばかりだったのだ。エリート自身が火を放ったとは考えにくく、何者かが彼らに向けて行ったとみられる。また、衰退期の通りにはゴミが積み上がり、一部の民族の居住区が封鎖された跡もあり、末期の都市が深刻な混乱の中にあったことをうかがわせる。
末期には記念碑と人身供犠が増えていた
終わりが近づくと、権力の集中が目立ち始める。中央の権力(まったく新しい権力だった可能性もある)を正当なものと示すためか、記念碑が新たに数百も造られた。人身供犠(生贄)の頻度も増え、美術に軍の指導者が描かれることも多くなった。この時期の壁画には、指導者の象徴である頭飾りを着けた男たちや、新しい時代と支配者の象徴である羽毛の蛇ケツァルコアトル※が描かれている。古い記念碑を壊しながら新しいものを建てない例もあり、宗教より統治を重んじるようになった表れとも、力が衰えていた表れとも読める。
※ ケツァルコアトル:「羽毛の蛇」の姿で表されるメソアメリカの神。
地下のトンネルから7万5000点を超える遺物
テオティワカンではいまも数十の発掘調査が続いている。なかでも注目されるのが、激しい暴風雨で羽毛の蛇の神殿(ケツァルコアトルの神殿)の下に陥没穴が開いたことで見つかった、地下のトンネル網だ。ヒスイの仮面、甲虫の羽を詰めた箱、金属質の球、生贄にされた人々の遺骨など、7万5000点を超える遺物が掘り出された。ただ、これまでの発見の多くは、テオティワカンの謎の核心には迫れていない。
主な仮説
元スレの投稿者によれば、テオティワカンの研究者のあいだでは議論が白熱しており、細部では資料同士が食い違うことも多い。衰退がゆっくり進んだのか、一気に崩れたのかさえ見方が分かれる。そのうえで、都市が衰え、捨てられた理由として主に挙げられているのが次の4つだ。
仮説1:弱った都市を外敵が襲った
長く主流だったが、いまは以前ほど支持されていない説。エリートの建物に焼かれた跡が多いことから、都市の混乱に目をつけた外部の勢力が、略奪やライバル潰しのために攻め込んだとみる。直接の証拠は乏しいものの、テオティワカンが周辺から恨まれていても不思議はない。外から連れてこられた、おそらく捕虜とみられる人々を生贄にし、従属する都市を身分の最下層に置く厳しい階級社会だったからだ。しかも城壁も軍備もなく、攻める側には格好の標的だった。襲撃者の候補にはライバル都市のソチカルコやカカシュトラ※の名が挙がるが、詳しいことはほとんど分かっていない。
※ ソチカルコ、カカシュトラ:いずれもメキシコ中部に遺跡が残る古代都市。
仮説2:広がりすぎた交易網がほころび、経済が傾いた
テオティワカンの力の源は交易だった。ところが500年ごろから、その影響力に陰りが見え始める。影響の及ぶ範囲が広がるほど、支配の手はゆるむ。通信の手段も文字もほとんどない時代に、遠い土地までまとめ上げるのは難しかった。やがて傘下の都市は独立色を強め、自前の交易網を築き始める。そのころのテオティワカンは外からの物資に頼る体質になっていた可能性が高く、それが届かなくなれば、人口の密集した都市にとっては致命的だっただろう。
仮説3:環境の悪化と干ばつで食料が尽きた
テオティワカンは環境にやさしい都市ではなかった。塗料に使う石灰岩を焼く薪の火は絶えず燃やされ、工芸品づくりにも膨大な資源が使われた。それ以上に深刻だったとみられるのが、増え続ける人口を養うのに欠かせない周辺の農地が荒れていったことだ。さらに衰退のころのメキシコは、エルニーニョ南方振動※で乾燥していた可能性がある。主食のトウモロコシが打撃を受ければ、飢饉や病気が広がる。この時期の埋葬で子どもや若者の骨が増えていることは、この説を裏付けるとも考えられている。イロパンゴ火山※の噴火が農業の崩壊を招いたとする見方もある。
※ エルニーニョ南方振動:太平洋の海水温の変化と連動して起こる気象現象。地域によっては雨が極端に減る原因になる。
※ イロパンゴ火山:中米エルサルバドルにある火山。
仮説4:民衆が支配層に、あるいは神々に背を向けた
末期のテオティワカンでは官僚機構が発達し、力をつけた中間エリートと上級エリートの競争や、民族間の緊張が高まっていた。上級エリートにとっては面白くない状況だったが、労働者たちの不満はそれどころではなかった。焼かれた建物が政治と宗教の中心に集中していることから、指導者層への反発が内部の反乱に発展したとみる考古学者もいる。一方で、壊された建物の多くが神殿や宗教的な図像だったことから、怒りの矛先は作物と人々を守ってくれるはずの神々だった、とする見方もある。末期に生贄が増えたのも、神々をなだめて都市を立て直そうとする最後のあがきだったのかもしれない。ただ、反乱が事実だとしても、最後の引き金が何で、なぜそこまで事態が悪化したのかは分からない。
いまでは、どれか1つではなく、これらが重なった結果だとみる研究者もいる。災害や環境悪化が経済の衰えや民衆の不満を招き、弱ったところを外敵に突かれた、あるいは民衆自身が立ち上がった、という筋書きだ。
そもそも誰が築いたのか
多くの考古学者にとって、衰退の理由以上に気になるのは、住民が何者だったのかという問いだという。かつてはトルテカ※の人々が築いたと考えられていたが、トルテカが最盛期を迎えたのはテオティワカンよりずっと後だった。ほかにもトトナカ、テオティワカン文化の影響を強く受けた初期のマヤ、サポテカ、ミシュテカ※などの名が挙がっている。
※ トルテカ:テオティワカンより後の時代にメキシコ中部で栄えたとされる人々。
※ トトナカ、サポテカ、ミシュテカ:いずれもメキシコの先住民。
確実に言えるのは、多民族の国家だったということだけだ。最初に築いたのが誰で、文化の主導権を握っていたのが誰かは分からない。主に話されていた言葉もほとんど分かっていない。ナワトル語※の祖先だった可能性はあるが、これほど影響力の大きい文化なら周辺の言語に借用語が残っていてもよさそうなものだ。
※ ナワトル語:アステカの人々が話していた言語。現在もメキシコで話されている。
海外の反応
以下は2021年、元スレに寄せられた反応。
1. 謎の名無しさん
最近、殺人事件じゃない謎の投稿が増えてきてうれしい。これも読みごたえがあって面白かった。書いてくれてありがとう。
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
同じく。現代の事件より、こういう歴史の謎だとなおうれしい。何百年も前の話ってだけでロマンがある。
3. 謎の名無しさん
タイトルを見た瞬間、アメリカの歴史番組でおなじみの決め台詞が頭の中で流れた。「断言はしません。でも……宇宙人です」
4. 謎の名無しさん
テオティワカンの人たちが衰退せずに発展を続けていたら、とよく空想する。アステカですら遊牧民からたった数百年で帝国になったんだから、もっと長く続いた文明ならスペイン人の征服を跳ね返せたかもしれない。
5. 謎の名無しさん
イギリスのオックスフォード大学って、アステカ帝国より古いらしい。最近知って衝撃だった。アステカはもっと大昔の文明だと思い込んでた。
6. 謎の名無しさん
名前の「テオ」が、ギリシャ語で神を意味する「テオス」に似てると一瞬思った。でも人間が出せる音なんて限られてるし、遠い言語同士で響きが似るのは珍しくない。これでヨーロッパとつながってたと考えるのは飛躍しすぎだよね。
7. 謎の名無しさん
いい記事だけど一点だけ。アステカの言葉は失われてない。ナワトル語として、いまもメキシコで普通に話されてる。生きてる言語を「失われた」と呼ぶのは違うと思う。
8. 謎の名無しさん(>>7への返信)
スレ主です。そこは資料によって言うことがバラバラで……。テオティワカンの言葉はナワトル語でもその祖先でもなかったとする資料もあれば、ナワトル語の古い形だとする資料もあった。失われたと書いたのはテオティワカンの言葉のほうなんだ。
9. 謎の名無しさん(>>7への返信)
メキシコ人として言うと、「普通に話されてる」は大げさかも。国全体で見ればナワトル語を話す人は少なくて、ほとんどの人はスペイン語しか話せない。ナワトル語が主な言葉だったら最高だったのに。
10. 謎の名無しさん
数年前に行った。とにかく広大で、自分がちっぽけに思えると同時に、どこか心がざわつく場所だった。月のピラミッドの頂上に着いたとたん雷が鳴って雨が降り出して、忘れられない体験になった。
11. 謎の名無しさん(>>10への返信)
ほんとに広いよね。しかもまだ全部は発掘されてないっていうんだから、歩いてた地面の下にも何か眠ってたのかと思うとぞくっとする。
12. 謎の名無しさん
98年に行った。太陽のピラミッドの頂上では、炎天下でヒッピーの集団があぐらをかいて瞑想してた。笑ったのは月のピラミッドで、仏教のお坊さんたちが日傘の下でサンドイッチを食べながら景色を楽しんでた。
13. 謎の名無しさん
ざっくりでいいから教えてほしい。アステカが建てたわけでも、建てた人たちの子孫でもないって、何を根拠に言えるの?
14. 謎の名無しさん(>>13への返信)
アステカには、定住の地を示すしるしを探して放浪したという伝説がある。もともと遊牧の民で、テオティワカンが造られた時代にはその土地にいなかったんだ。そもそもアステカがどこから来たのかも、伝説しか残ってなくていまだに謎。
15. 謎の名無しさん
外敵説はしっくりこない。略奪者なら手当たり次第に火をつけそうなのに、焼かれたのは政治と宗教の中心ばかり。どこに何があるか知ってる人間、つまり内部の仕業に見える。
16. 謎の名無しさん(>>15への返信)
でも城壁すらない都市だよ。中で揉めてるのを周りの都市が黙って見てたとは思えない。内輪揉めで弱ったところを外から攻め込まれた、で十分筋は通る。
17. 謎の名無しさん
YouTubeで「536年はなぜ史上最悪の年だったのか」というドキュメンタリーを見た。巨大な火山噴火のあと、世界中で凶作や飢饉、疫病が続いたって内容で、テオティワカンの名前も出てきた。
18. 謎の名無しさん(>>17への返信)
本文のイロパンゴ火山の噴火説ともつながりそう。主食をトウモロコシに頼ってたなら、不作が何年か続くだけで、あれだけの人口を抱えた都市はもたない。
19. 謎の名無しさん
学術的な話じゃないけど、宗教の暴走が鍵だと思う。農業が傾いて暮らしが苦しくなり、神官たちは神の助けを求めて生贄を増やす。でも助けは来ない。ついに民衆が権力にも宗教にも見切りをつけて神々の像を壊し、最後は街を捨てて周りの部族や都市に紛れていった、という流れ。
20. 謎の名無しさん(>>19への返信)
筋書きとしてはきれいすぎる気がする。生贄が増えたのが神頼みのためか、新しい支配者が力を見せつけるためか、遺跡からはどっちとも読めるんじゃない?
21. 謎の名無しさん
テオティワカンは黄鉄鉱(金色に光る鉱物)の鏡で知られてて、似た様式の鏡が南はグアテマラの古代マヤ都市カミナルフユ、北はアリゾナ州南部でも見つかってるって読んだ。交易の範囲はとんでもなく広かったんだろうね。
22. 謎の名無しさん
これだけの都市を、金属の道具も車輪もなしに造ったと思うと、すごさがさらに増す。どれだけの人手と時間がかかったんだろう。
23. 謎の名無しさん(>>22への返信)
車輪はともかく、メソアメリカにも金属加工の技術はあったよ。ただテオティワカンで大量に出てくるのは黒曜石の道具だから、この都市を支えたのは石の技術だったんだろうね。
24. 謎の名無しさん
テノチティトランとテオティワカンを混同してない? どっちもメキシコ盆地にあるけど、別々の都市だよね?
25. 謎の名無しさん(>>24への返信)
メキシコシティに20年以上住んでたけど、別の都市で合ってる。アステカが築いた都テノチティトランの上に、スペイン人が今のメキシコシティの中心部を造った。テオティワカンはアステカが来る700年以上前にもう捨てられてて、誰が住んでたのかは誰にも分からない。
26. 謎の名無しさん
観光客向けの光と音のショーで、石組みが修復できないほど傷んでるなんて残念すぎる。国がきちんと守るべきじゃないの?
27. 謎の名無しさん(>>26への返信)
現地では、傷みやすい場所はロープで囲われてて、観光客もだいたい守ってた。ただ世界遺産で大事な観光収入源でもあるから、人を呼ぶ演出と保存の両立は難しいんだと思う。
28. 謎の名無しさん
29年前、13歳のときに行った。死者の大通りを歩くだけで畏怖の念が湧いてくる。月のピラミッドは半分を過ぎたあたりから急になって、階段というよりはしごを登ってる感覚だった。メキシコシティに行くなら、日帰りする価値は絶対ある。
29. 謎の名無しさん
個人的には交易網の崩壊説がいちばん現実的だと思う。あれだけ人口が密集した都市は、外から物が入ってこなくなった時点で立ち行かなくなる。現代の大都市だって、物流が止まれば何日ももたない。
30. 謎の名無しさん
メキシコの国立博物館とテオティワカンに行って、時間の流れの中で自分がいかにちっぽけか思い知らされた(遺跡のそばのタコスは最高だった)。何千年後かの考古学者が、現代の遺跡からフォークを大量に掘り出して「食の神か戦の神だ」とか言い出すのかもね。
未解決の謎
テオティワカンをめぐる問いは2つある。なぜ捨てられたのか、そして誰が築いたのか。衰退の理由は、外敵、経済、環境、反乱のどの説にもそれなりの根拠があり、それらが連鎖したとみる研究者もいる。それでも最後の引き金が何だったのかは分からず、衰えがゆっくり進んだのか一気に崩れたのかさえ、見方は分かれたままだ。
住民たちのその後もはっきりしない。多くは侵略や飢饉、病気、反乱などで命を落とし、生き残った人々は周辺の都市へ散って、しだいに出自を示す特徴を失っていったとみられる。崩壊した国家と距離を置くため、あえてそうした可能性すらあるという。アステカの人々が廃墟を見つけたころには、都市の本来の名前も、そこで話されていた言葉も、人々の記憶から消えていた。
いまも発掘は続き、考古学者たちは各地に運ばれたテオティワカンの土器を手がかりに、この文明の広がりを追っている。一方で、人の手による損失は昔から続いてきた。数百年前にはすでに、地元の農民が掘り出した遺物を捨てていたという。いまも都市の拡大が遺跡を脅かし、観光向けの演出による傷みも加わって、答えが見つかる前に手がかりのほうが失われていくおそれもある。
元スレから数年が過ぎたいまも研究は続いているが、「神々の生まれた場所」を築き、そして去っていった人々が何者だったのか、定説と呼べる答えはまだ出ていない。


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