「その子は自分をセルマと名乗っていた」虐殺を逃れた7歳の少女、写真のあとの足取りが今もつかめない

「その子は自分をセルマと名乗っていた」虐殺を逃れた7歳の少女、写真のあとの足取りが今もつかめない 行方不明・失踪

1995年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の町スレブレニツァが陥落し、約8000人が殺害される虐殺※が起きた。その混乱のさなか、7歳の少女セルマ・ムシッチが、逃げまどう群衆のなかで母親とはぐれた。それから長いあいだ、セルマは死んだと思われていた。

※ スレブレニツァの虐殺:ボスニア紛争中の1995年7月、国連が「安全地帯」に指定していたスレブレニツァをボスニアのセルビア人勢力の軍が制圧し、主にイスラム教徒の男性や少年、約8000人を殺害した事件。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷と国際司法裁判所は、ジェノサイド(集団殺害)と認定している。

ところが24年後の2019年、母親はネットに出回っていた1枚の写真に、あの日の服を着た娘が写っているのに気づいた。撮られた場所は、虐殺を逃れた人たちがたどり着いた「安全な地域」だった。少なくともそこまでは、セルマは生きていたことになる。それなのに、その先の足取りは今もつかめていない。2020年に立った元スレでは、世界中の読者が当時の映像を1コマずつ見返し、少女の行方を探した。

事件の概要

🗓️ 発生日:1995年7月11〜12日(スレブレニツァ陥落の直後。元スレは11日、元スレが紹介した記事は12日としている)

🌫️ 場所:ボスニア・ヘルツェゴビナ東部、スレブレニツァ郊外のポトチャリ(国連部隊の基地の周辺)

👤 行方不明者:セルマ・ムシッチ(当時7歳)。4人きょうだいの一番上

🔍 状況:陥落後、国連の基地に逃れた群衆のなかで、母親が娘を見失った。のちに、クラダニ近郊の「安全な地域」で撮られた写真に、セルマが写っていたことが分かった

🕯️ 現状:家族は長く死亡したものと考えていたが、2019年に写真が見つかり、生き延びていた可能性が浮かんだ。2026年10月時点でも、見つかったという報道は確認できない

スレブレニツァは1993年に国連の「安全地帯」に指定され、周りの村々から逃れてきた人たちであふれていた。1995年7月11日に町が陥落すると、住民の多くは郊外のポトチャリにあった国連部隊の基地へ押し寄せた。そこで男性や少年は引き離され、女性や子ども、お年寄りはバスで前線の近くまで運ばれたあと、歩いて政府側の地域へ向かった。その先が、クラダニを経てトゥズラへと続く一帯だった。

元スレが紹介した記事(2020年)によると、セルマは4人きょうだいの一番上で、下には5歳、2歳、生後6か月のきょうだいがいた。母親はポトチャリの人ごみのなかで、セルマの姿を見失った。父親は森を抜けて政府側の地域まで歩き、7月20日に妻と3人の子どもに再会した。そこに、セルマはいなかった。家族はその後7年間を避難民として過ごし、2002年にアメリカへ移り住んだ。セルマは行方不明者の名簿に載り、長いあいだ、どこかの集団墓地※に眠っているのだろうと思われていた。

※ 集団墓地:虐殺の犠牲者は、事件のあと何か所にもまとめて埋められ、のちに重機で掘り返されて別の場所へ移されたこともあった。そのため遺骨は今も各地で見つかっていて、DNA鑑定で1人ずつ身元が確かめられている。

判明している事実

2019年3月、母親がFacebookの写真で服に気づいた
2019年3月、母親はFacebookのあるページに載っていた写真に、あの日セルマが着ていた服を見つけ、すぐに娘だと気づいた。写真を撮ったのは地元の報道写真家で、場所はクラダニ近郊のラヴネ。スレブレニツァから運ばれてきた市民の受け入れ地点になっていた場所だ。撮影日は1995年7月13日ごろとされるが、撮影者本人も正確な日付は覚えていないという。家族は翌月ボスニアへ渡り、写真を赤十字と警察に届けた。撮影者は、この写真はセルマが政府側の地域に無事たどり着いていた証拠だと語っている。

写真の女性たちは「セルマと名乗っていた」と証言
写真に一緒に写っていた女性たちは、知り合いのつてをたどって見つかった。元スレの投稿者によると、女性たちは、その女の子が自分を「セルマ」と名乗っていたと認めた。ただ、その後セルマがどこへ行ったのかを知っている人は、1人もいなかった。投稿者は自身もスレブレニツァの生存者だと書いていて、捜索にかかわる人たちと連絡を取っている様子だった。

国連兵士の目撃証言と、地元テレビ局の映像
クラダニに着いた何千人もの避難民は、長く身を寄せることになるトゥズラ方面へ向かった。元スレの投稿者によれば、国連部隊の兵士の1人が家族に連絡してきて、トゥズラ近郊のドゥブラヴェにあった空港の国連基地で、同じ服のままのセルマを見たと話したという。さらにスレが立ったあと、地元のテレビ局「TVジヴィニツェ」が保管していた映像を見直し、クラダニに着いたセルマの姿を見つけた。ただし、その先の足取りを示す写真や映像は、まだ1つも見つかっていない。

DNA照合で一致する遺骨は出ていない
スレブレニツァの周辺では今も遺骨が見つかり、行方不明者の家族が提供したDNAと照合されている。約8000人とされる犠牲者の多くは、これまでにDNA鑑定などで身元が確かめられてきた。元スレの投稿者によれば、セルマの家族もDNAを提供しているが、これまでに一致した遺骨は1つもない。なお、写真をもとに大人になったセルマの顔を推測した年齢進行画像を、米連邦捜査局(FBI)が作ったと報じられている。

2020年以降、見つかったという報道はない
元スレは2020年7月、虐殺から25年の節目に立った。当サイトでは2026年10月時点の続報を英語とボスニア語の報道で探したが、セルマが見つかった、あるいは遺骨の身元が確かめられたという報道は見当たらなかった。セルマは1987年9月生まれと報じられていて、生きていれば2026年9月で39歳になった計算だ。家族はFacebookに専用のページを作り、情報提供を呼びかけてきた。

主な仮説

仮説1:善意の大人に連れられ、別の家族の子として育った

混乱のなかで1人きりの女の子を見かけた大人が、親はもう死んだものと思い込み、見捨てられずに連れて行った、という見方。コメント欄では、避難の途中で母親とはぐれた女の子が、同じ避難民の夫婦の子として届け出られていた例をドイツの人探し番組で見た、という書き込みが支持を集めた。7歳の子が親を求めて泣かないはずはなく、そばで世話をしていた大人がいたはずだ、という指摘もあった。ただ、セルマが誰と一緒にいたのかは、今のところ分かっていない。

仮説2:施設を経て、国外へ養子に出された

元スレの投稿者が紹介した、ネットで広まっている説。親とはぐれた子どもは赤十字の施設などに送られたが、戦時中の腐敗のなかで、多くが西ヨーロッパの国々へ養子として売られた、というものだ。ただし、これは確認された事実ではなく、投稿者自身もイタリアに子どもが売られたという話は「あくまで噂」だと書いている。背景には、紛争中にサラエボの児童施設からイタリアへ避難した子どもたちの一部が、親が生きていたのに現地で養子にされていた、という別の出来事がある(元スレが紹介した記事も触れている)。セルマとの関係を示すものは見つかっていない。この説のとおりなら、本人は「家族は戦争で死んだ」と聞かされて育ったのかもしれない。

仮説3:保護される前後に命を落とした、あるいは事件に巻き込まれた

戦争中のトゥズラで育ったというユーザーは、「もっと悪い運命をたどった可能性の方が高い」と書いた。何万人もの避難民が押し寄せた混乱のなかで、保護者のいない7歳の子はあまりに無防備だった。DNA照合で一致する遺骨が出ていないことは、生きている証拠にはならない。集団墓地とは別の場所で亡くなり、身元が分からないまま葬られていれば、照合の網にかからない可能性もある。

仮説4:写真の女の子は、セルマではなかった

何十年も前の写真1枚で本人と決めるのは早い、という懐疑的な見方。ただ、母親は娘が着ていた服で気づいていて、写真に一緒に写っていた女性たちは、その子が「セルマ」と名乗っていたと証言している。国連兵士の目撃証言と、地元テレビ局の映像もある。コメント欄でも、この説を推す声はほとんどなかった。

海外の反応

1. 謎の名無しさん
うわ……これ、本当に解決できるかもしれない。写真が残っていて、その子の名前を聞いた人までいるなんて、この手の話ではめったにないよ。

2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
スレ主だけど、本当にそう思う。情報が広まるほど、見つかる可能性は上がる。ボスニアの中ではもう話題になってるけど、本人はたぶんボスニアにはいない。だから海外の掲示板に書いたんだ。

3. 謎の名無しさん
戦争で故郷を追われたボスニアのイスラム教徒の知り合いが何人かいるから、全員にこの話を送って、心当たりのある人がいないか周りに聞いてもらうよう頼んだ。みんな当時は小さかったから望みは薄いけど、やって損はない。

4. 謎の名無しさん
水を差すようで悪いけど、25年前の写真1枚で本人だと決めるのは難しくない? 避難民は何万人もいたんだし、同じ年ごろで似た服を着た女の子なんていくらでもいたと思う。

5. 謎の名無しさん(>>4への返信)
スレ主です。望みが薄いのは分かってる。でも母親は、はぐれたときにあの子が着ていた服で、娘だと分かったんだ。それに写真に一緒に写ってた女性たちも、その子が自分をセルマと呼んでいたと証言してる。

6. 謎の名無しさん
名字の綴りが英語の「music(音楽)」と同じなのが素敵だなと思ってたら、スレ主いわく発音は「ムシッチ」に近いらしい。最初の「ム」をすごく短く言うんだって。

7. 謎の名無しさん
スレ主だけど、DNAの話を。スレブレニツァの周りでは毎年のように集団墓地が見つかっていて、身内が行方不明の人はみんな、遺骨と照合してもらうためにDNAを出してる。セルマの家族もとっくに提供した。1995年7月に殺された約8000人のうち、8割ほどはこれまでに遺体が見つかってる。でも、セルマの家族と一致した遺骨は1つもない。つまり、あの子が死んだという手がかりは無いんだ。

8. 謎の名無しさん(>>7への返信)
家族が出したのは遺骨と照合するためのDNAで、照合されるのはそのデータベースに登録された遺骨や人だけだよね。セルマが養子になって自分の出自をよく知らないなら、そっちに載ることはない。でもAncestryや23andMeみたいな民間のDNA検査※なら、本人が受けてるかもしれない。母親のDNAは、絶対にそっちにも登録しておくべきだと思う。

※ 民間のDNA検査:唾液などを送ると、祖先の地域や血縁者が分かる商用サービス。米国のAncestryや23andMeがよく知られ、登録者どうしで血縁関係が見つかることがある。

9. 謎の名無しさん
完全に想像だけど、昔ドイツの人探し番組で見た話を思い出した。避難の途中で母親とはぐれた女の子を、同じ避難民の夫婦が放っておけずに連れて行き、自分たちの子だと届け出ていたんだ。母親は死んだと思い込んでいたらしい。番組を知った夫婦はすぐに嘘を認めて、子どもを母親に返した。7歳の子が親を求めて泣かないはずがないし、セルマのそばにも、そういう大人がいたんじゃないかな。

10. 謎の名無しさん(>>9への返信)
自分もそうであってほしいと思ってる。最悪の結果は考えたくないし、家族のDNAが遺骨と一致していない以上、あの子がまだ生きている可能性は十分にある。

11. 謎の名無しさん
7歳の子が自分の名前を忘れるはずがない、と思ってる人たちへ。あの子が経験したトラウマの大きさを甘く見ないでほしい。名前の一部や家族の顔、住んでいた場所を忘れていても不思議じゃない。7歳なんて、平和なときでもクローゼットの中の靴の前に立って「どこにもないよ!」って母親に叫んでるような年ごろだよ。

12. 謎の名無しさん
同じくらいの年でボスニアの虐殺を経験した友だちがいるけど、10歳より前のことは何も覚えていないと言ってる。つらい記憶を心の奥に押し込めてしまうことは、本当にあるんだと思う。

13. 謎の名無しさん
でも、もうすぐ8歳になる子だったんでしょ。名前を変えられたとしても、それまで何年もセルマと呼ばれていたことまで忘れるかな。自分の国くらいは覚えているはずだと思う。

14. 謎の名無しさん(>>13への返信)
映画『LION/ライオン ~25年目のただいま~』※を観た? 主人公は5歳だったけど、町の名前を間違えて覚えてた。子どもはけっこう忘れるし、違ったふうに覚えてしまう。セルマも養子になって「家族は殺された」と聞かされたから、探そうとしなかったんじゃないかな。

※ 『LION/ライオン ~25年目のただいま~』:5歳のときにインドで迷子になり、オーストラリアの夫婦の養子になった男性が、25年後に故郷を探し当てた実話をもとにした2016年の映画。

15. 謎の名無しさん
コロナで4か月仕事が休みになって、ずっと子どもと家にこもってた。仕事に戻った最初の週末、子どもに「なんで今日は仕事に行かないの? これから毎週こうなの?」って聞かれたよ。同じくらいの年の子が、たった4か月で週末を忘れたんだ。戦争のトラウマもなしに。

16. 謎の名無しさん
もし生きているなら(そう願ってる)、アメリカよりヨーロッパのどこかで養子か里子になった可能性が高いと思う。たぶん今は別の言葉を話してる。ヨーロッパじゅう、もしかしたらアジアの一部でもこの件が取り上げられれば、見つかるかもしれない。

17. 謎の名無しさん
とんでもない話だ。国をまたいだ養子縁組のうち、どれくらいが違法なものなんだろうって考えてしまう。

18. 謎の名無しさん(>>17への返信)
法科大学院で養子縁組と移民の授業を両方取ったけど、子どもを盗んで養子に出す話は本当に多い。しかも、貧しい国だけで起きてるわけじゃない。

19. 謎の名無しさん(>>17への返信)
アメリカにも「テネシー児童ホーム協会」※があった。医者も看護師も警官も判事もかかわっていた、赤ちゃんを盗んで売る組織だ。子どもと引き換えに、とんでもない額のお金が動いてた。

※ テネシー児童ホーム協会:米テネシー州メンフィスにあった養子あっせん機関。支部長のジョージア・タンが、貧しい家庭などから子どもを引き離し、裕福な家庭へ高額であっせんしていたことが、1950年に州の調査で明るみに出た。

20. 謎の名無しさん
イタリアに住んでるけど、この話は最近こっちのニュースでもよく見る。当時は情勢が落ち着くまでの預かりという形で、たくさんの子どもがイタリアの家庭に送られたけど、多くは実の家族に戻されず、裕福な家の養子になった。セルマもその1人かもしれない。

21. 謎の名無しさん(>>20への返信)
スレ主です。イタリアでも話が広まったのは、子どもたちがあちらに養子として売られたという噂があったからなんだ。でも、それはあくまで噂にすぎない。

22. 謎の名無しさん
旧ユーゴ国際戦犯法廷※で少しだけインターンをしてた。軍は女性や子どもを、男性や少年から計画的に引き離したし、避難民はドイツやオーストリア、イギリスやアメリカにまで散らばった。当時の記録は赤十字の連絡記録も含めてほとんどが法廷に集められたけど、全部を読み解く作業はまだ終わっていない。家族と再会できないままの人がいても、まったくおかしくないと思う。

※ 旧ユーゴ国際戦犯法廷:旧ユーゴスラビアの紛争で起きた戦争犯罪を裁くため、国連が1993年にオランダのハーグに設けた法廷。2017年に閉廷した。

23. 謎の名無しさん(>>22への返信)
ホロコーストのあと生き別れたユダヤ人は何千人もいて、名前も出身地もきちんと分かっていても、何十年もたった今も再会が続いてるんだよね。

24. 謎の名無しさん
自分は戦争中のトゥズラで育った。正直に言うと、あの子はもっと悪い運命をたどった可能性の方が高いと思ってる。戦争は人間のいちばん悪い部分を引き出すし、ひとりぼっちのあの子はあまりに無防備だった。

25. 謎の名無しさん
どこかで安全な人の手に渡っていてほしい。当時は少なくとも国連が避難民の状況を見ていたはずだから、さらわれたりはしていないと思いたい。西側の家庭で長く暮らすうちに、子どものころの記憶が薄れたのかも。そうでなければ、今ごろ名乗り出ているはずだから。

26. 謎の名無しさん
いまアメリカは朝の3時半。何時間も古い映像の中からあの子を探してた。続きはまた明日やる。それにしても、映像に出てくるバスの中がどれもすごく暑そうで気になった。誰かがあの子のそばにいて、水を飲ませてくれていたはずだ。

27. 謎の名無しさん(>>26への返信)
どの動画を見たのか書いてくれない? 確認し終わった動画を一覧にしておけば、みんなで同じ動画を見る無駄がなくなって、まだ誰も見ていない動画から始められると思う。

28. 謎の名無しさん
写真のあの子は、手に赤いセーターを持ってる。だからピンクの上着だけじゃなく、赤いセーターを着た子も探した方がいい。とくに朝や夕方、夜の映像。昼間より冷えるから、着ているかもしれない。

29. 謎の名無しさん
ある動画の1分45秒あたりに、セーターの下にピンクの服を着た女の子が映ってた。ただ、手に持っている上着が写真のセルマとは違う。あの子はどれだけ怖かっただろうと思うと、胸が張り裂けそうになる。

30. 謎の名無しさん(>>29への返信)
スレ主です。すごい労力をありがとう。正式に調べている人たちに必ず伝えるよ。服は違うけど、下にピンクの襟が見えるから、元の写真のピンクのセーターかもしれない。

未解決の謎

この事件の不思議さは、ふつうの失踪とは順序が逆になっていることにある。家族は24年間、娘はもう死んだものと思ってきた。それが1枚の写真で、少なくとも安全な地域まではたどり着いていたと分かった。写真、名前を聞いていた女性たち、国連兵士の目撃証言、テレビ局の映像と、はぐれてから数日間の足取りは珍しいほど具体的に追える。それなのに、トゥズラ方面へ向かった何万人もの避難民の流れのなかで、足取りはふっと途切れている。

その先で何が起きたのかを説明する筋道は、いくつもある。善意の誰かに引き取られたのか、施設を経て国外へ出たのか、混乱のなかで命を落としたのか。どの説にも決め手はなく、国外へ売られたという話は今も噂の域を出ない。はっきりしているのは、DNA照合で一致する遺骨が出ていないことだけだ。7歳の記憶が、戦争と長い年月のあいだにどこまで残っているのかは誰にも分からない。本人が生きていても、「家族は戦争で死んだ」と聞かされて育ち、別の名前で暮らしていれば、自分が探されていると気づく機会はほとんどない。

元スレが立った2020年の夏、世界中の読者が古い映像を1コマずつ見返し、確かめ終えた映像を一覧にしようと呼びかけ合った。それから6年がたつが、見つかったという知らせは届いていない。生きていれば、もう39歳だ。スレ主が呼びかけたとおり、似た子が映ったほんの1コマが、次の手がかりになるかもしれない。

出典:r/UnresolvedMysteries 元スレ

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