1930年4月、日本統治下の朝鮮・忠清南道の山あいの村で、少年の遺体が見つかった。全身にあざがあり、顔は見分けがつかないほど傷んでいた。警察はまもなく、村の酒幕※で働いていた16歳のパク・チャンスだと断定し、女主人と使用人の男を逮捕した。2人は自白し、懲役15年と10年の判決を受けた。遺体は母親が引き取り、息子として葬った。
※ 酒幕(チュマク):朝鮮の村や街道筋にあった店。酒と食事を出し、旅人を泊めることもあった。
ところが半年後、殺されたはずのパク・チャンスが、生きて母親のもとへ帰ってきた。では、山で見つかり、彼の名で葬られた少年は誰だったのか。韓国で「青陽(チョンヤン)少年殺人事件」と呼ばれるこの出来事を、当時の新聞や雑誌を引いた韓国語の記事と、海外掲示板の議論からまとめた。
事件の概要
🗓️ 発生日:1930年4月26日ごろとされる(遺体の発見は4月29日)
🌫️ 場所:日本統治下の朝鮮・忠清南道青陽郡飛鳳面の龍川里(現在の韓国・忠清南道青陽郡)。村の裏山「パクソク山」の中腹
👤 被害者:身元不明の少年(15〜16歳くらい)。当初は、村の酒幕で働いていたパク・チャンス(16歳)とされた
🔍 状況:全身にあざがあり、解剖で死因は窒息とされた。そばに背負子と手ぬぐいが残っていた。酒幕の女主人と使用人が自白し、有罪になった
🕯️ 結末:1930年10月18日、パク・チャンス本人が生きて帰宅。有罪の2人は1931年の再審で無罪となった。山の少年の身元は今も分かっていない
舞台は青陽郡飛鳳面の龍川里(ヨンチョンリ)※。面の人口は7000人ほどで、新東亜の記事によれば、殺人どころか小さな盗みさえめったに起きない村だった。なお、登場する人名は資料で漢字を確認できなかったため、カタカナで書く。
※ 龍川里:元スレでは英字で「Yeongcheon」と書かれているが、韓国語の資料にある村名は「용천리」で、今の青陽郡飛鳳面の龍川里にあたる。慶尚北道の永川(ヨンチョン)市とは別の場所。
酒幕の女主人コ・オクタン(21歳)は、隣の面に住む資産家ハン・ベグォンの妾だった。本妻と同じ家には住めず、ハンが龍川里に酒幕を開かせ、35歳の使用人チョ・ギジュンと切り盛りしていた。パク・チャンス(16歳)は隣の保寧(ポリョン)郡の貧しい家の出で、1930年3月、春窮期※に口減らしのため家を出た。物乞いの一団と流れ歩くうちに龍川里へ着き、酒幕に使用人として雇われた。
※ 春窮期:前の年の穀物が尽き、麦の収穫を待つ春先の食糧難の時期。朝鮮語では「ポリッコゲ(麦の峠)」と呼ばれた。
4月29日、山菜を採りにパクソク山へ入った村の女性が、落ち葉の中に少年の遺体を見つけた。青陽の町の病院で解剖した結果、死因は窒息、死後72時間以内とされた。そばには背負子※と手ぬぐいが1枚残っており、手ぬぐいで首を絞めたとみられた。
※ 背負子(チゲ):2本の長い木の棒を横木でつないだ、朝鮮の伝統的な運搬具。背中にしょって薪や荷を運ぶ。
警察が2日かけて聞き込むと、この1週間で村から姿を消した少年は、パク・チャンスひとりだった。4月26日の朝、女主人と使用人に2度にわたって叩かれ、酒幕を出たきり行方が分からなくなっていた。警察は2人を逮捕した。コは否認したが、チョは2日で自白し、現場の手ぬぐいも自分のものだと述べた。その後、コも警察の取り調べで認めた。
警察が描いた筋書きはこうだ。コがパク少年を連れてツケの酒代を取り立てに回った日、村の男イ・ギムンに「一緒に江景(カンギョン)へ逃げよう」と誘われ、「ツケを払ったら考える」とかわした。この話をパク少年がハンに告げ口し、4月26日の朝、ハンはコを叱りつけた。怒ったコは少年を叩き、さらにチョと示し合わせて、その夜「山菜を採りに行こう」と山へ連れ出し、殴ったうえで手ぬぐいで首を絞めた――。
公州地方法院の長谷部裁判長は、罪を認めたチョに懲役10年、否認を続けたコに懲役15年を言い渡した。チョは控訴せずに服役した。コは京城覆審法院(当時の控訴審の裁判所)に控訴したが、9月15日に同じ15年を言い渡され、上告をあきらめた。事件は5か月で幕を閉じた、はずだった。
判明している事実
「服は違うけれど息子です」と母は答えた
保寧から呼ばれた母親は、遺体を見て「息子に間違いない」と答えた。ただ、「服は息子が家を出たときに着ていたものと違う」とも述べていた。警察は服の食い違いを深く調べず、遺体を服ごと母親に引き渡した。母親は遺体を共同墓地の片隅に葬った。新東亜の記事は、母親が見誤った理由として、死後1週間ほどたって傷んでいた遺体、「パク・チャンスか」と尋ねる警察の問いが生んだ思い込み、涙で遺体をよく見られなかったことを挙げている。心から悲しんでいたこと、息子が死んでも得るものがないことから、わざと嘘をついた可能性は低いとみている。
帰ってきた本人の話
1930年10月18日、母親の家にパク・チャンスが現れた。新東亜の記事によれば、昼寝をしていた母親は息子を見て「幽霊だ!」と叫んだ。当時の大衆雑誌『別乾坤』1931年1月号は、本人も自分が「殺された」ことを知らずに驚き、駆けつけた村人たちも驚いたと伝えている。
新東亜の記事が伝える本人の話はこうだ。雇われてまもなく、ハンにひそかに「コに怪しい動きがあれば知らせてくれ。誰が言ったかは漏らさない」と頼まれ、何度か告げ口していた。4月26日の朝に叩かれると、約束を破られたことも、八つ当たりされたことも悔しくて、誰にも告げずに酒幕を出た。公州(コンジュ)の寺に1か月ほど身を寄せ、その後は公州の町の家で使用人として夏を過ごした。秋夕(旧盆にあたる祝日)を他郷で迎えると家が恋しくなり、帰ってきたという。
この話では、パク少年は夜の山には行っていない。一方、元スレや韓国語のネット百科「ナムウィキ」は、山へ連れていかれて殴られ、気を失ったあと目覚めて村を去ったと書いている。今回調べた資料では、どちらの筋が正しいかを確かめられなかった。
唯一の物証だった手ぬぐい
チョは、現場の手ぬぐいは自分のもので、それでパク少年の首を絞めたと自白していた。ところが『別乾坤』1931年1月号によれば、その後の警察と検事の調べで、この手ぬぐいはチョのものではないと分かった。自白では、パク少年は背負子をしょって山菜採りに出たことになっていたが、なぜ背負子だったのかは裁判でも明らかにならなかった。遺体の服は墓の中にあり、残る手がかりは背負子と、持ち主の分からない手ぬぐいだけになった。
責任を押しつけ合った当局
1930年11月下旬、朝鮮総督府の機関紙だった新聞『毎日申報』がこの騒ぎを報じた。新東亜の記事に引かれた紙面によると、公州地方法院検事局の松本検事は「これまでの調べでは、2人がパクソク山で少年を傷つけたという証拠は得られていない」と認めながら、捜査がまだ終わっていないとして再審の請求を先送りし、山の少年を誰が殺したのか「命をかけてでも突き止める」と語った。長谷部裁判長は誤審を認めつつ、検事局が再審を求めない限り手の打ちようがないと話した。京城覆審法院の末廣裁判長は、公判には自白の警察調書も鑑定書も出ており、自分たちは裁判をしただけだとした。総督府の渡邊法務課長は、医師の鑑定と親の確認がそろえば、司法官としてはどうしようもないという趣旨の話をしている。
再審で無罪、補償はなし
1931年6月30日、松本検事の請求による再審で、チョは無罪となった。コについては京城覆審法院検事局が7月に再審を請求した。7月21日の再審公判で、コはパク少年を叩いたことは認めたが、殺すつもりは少しもなかったと述べた。自白した理由を問われると、「警察署であまりに厳しく取り調べられ、やむなく嘘の自白をした」と答えている(『別乾坤』1931年8月号)。7月27日、コも無罪となった。新東亜の記事によれば、チョは自白の理由を何も説明しなかった。元スレとナムウィキは、2人とも再審で強いられた自白だったと証言したと書いており、資料によって食い違う。
2人は1年あまり身柄を拘束されたが、補償は受けられなかった。元スレとナムウィキは、2人が補償を求めたものの、当時は誤判の被害を償う法律がなく退けられたと書く。新東亜の記事は、無罪になった人が国に補償を求められる刑事補償法はこの時点でまだ施行されておらず、施行後も、捜査段階で自白した人は請求を退けられる決まりだったとしている。
主な仮説
仮説1:2人は人違いで別の少年を殺した
『別乾坤』1931年1月号が挙げた推理。最後まで罪を認め、控訴もしなかったチョには何かの罪があるはずで、山へ向かう途中、パク少年に似た別の少年を暗がりで取り違えて殺したのではないか、というものだ。犯行は午後7時すぎとされ、辺りは暗かった。ただ新東亜の記事は、自白ではコとパク少年が一緒に山を登っており、並んで歩いた相手が入れ替わって気づかないはずがなく、目の前で首を絞めて人違いもありえない、と疑問を示している。
仮説2:2人は無関係で、遺体は別の事件の被害者だった
新東亜の記事が伝える本人の話どおりなら、パク少年は朝に酒幕を出ており、夜の山には行っていない。手ぬぐいはチョのものではなく、松本検事も2人が少年を傷つけた証拠はないと述べていた。だとすれば、山の少年はまったく別の誰かに殺され、「その朝に使用人の少年を叩いた2人」がいたことで話がつながってしまった可能性がある。元スレには、遺体はよそから運ばれ、人目のない山に捨てられたのではないかという見方もあった。
仮説3:遺体の少年は、探す家族のいない流れ者だった
身元が分からなかった理由についての見方。警察は「この1週間で村から消えた少年」を探してパク少年にたどり着いたが、ほかに届けは出ていなかった。パク少年自身、春窮期に家を出て物乞いの一団と流れてきた身だった。同じように村から村へ働き口を探す少年が殺されたのなら、地元で探す人がいないのは不思議ではない。当時は今のような住民登録の仕組みも、DNA鑑定もなかった。
仮説4:帰ってきた少年のほうが別人だった
元スレで出た説。殺されたのは本物のパク少年で、帰ってきたのはなりすましだったというもので、資産家のハンが妾を刑務所から出すために少年を雇った、という推理もあった。ただ、帰ってきた少年は母親だけでなく村の人々にも迎えられ、ナムウィキによれば当局も呼び出して本人だと確かめている。元スレの投稿者が調べた範囲では、この件が新聞に載ったのは彼が帰ってきたあとの11月下旬で、報道から細かな事情を知ることもできなかった。その後、彼は通りを歩くと人がついて回るほど忠清道一帯で有名になり、故郷で母親と農業をして暮らした。なりすましが通る状況とは考えにくい。
海外の反応
1. 謎の名無しさん
その少年が眠ってる墓って、今でも場所は分かるのかな。掘り起こして調べることはできないの?
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
スレ主だけど、手元の資料には墓の場所が出てこないんだ。母親は保寧に住んでたけど、裕福な家じゃなかったから、身元不明の少年がどこに葬られたのかは分からない。
3. 謎の名無しさん
墓の話が出てたけど、韓国語の記事だと母親は遺体を共同墓地の片隅に土葬したらしい。火葬じゃないなら、どこの墓地か分かれば、理屈の上ではDNAで調べる道は残ってる。
4. 謎の名無しさん
英語圏ではまず知られてない事件を、ここまで詳しく読めるのはめったにないことだと思う。紹介してくれてありがとう。
5. 謎の名無しさん
ちょっと混乱してる。結局、有罪になった2人は刑務所から出られたの? それとも出られないまま?
6. 謎の名無しさん(>>5への返信)
出られたよ。再審で無罪になって釈放された。ただ、間違って閉じ込められた分の補償、つまり失った稼ぎや名誉への償いは受けられなかった。
7. 謎の名無しさん(>>6への返信)
補償がなかったのは、正直ちょっとほっとしてる。殺してはいなくても、死ぬ寸前まで殴って置き去りにしたわけでしょ。傷害か何かで裁かれないの? 当時の向こうの法律を知らないから、皮肉じゃなく本当に知りたい。
8. 謎の名無しさん(>>7への返信)
元スレの説明だとそうなるんだけど、韓国語の記事だと話が少し違う。少年が叩かれたのは朝の酒幕の中で、そのあと自分で黙って出ていったことになってる。女主人も再審で、叩いたことは認めて、殺すつもりはなかったと言ってる。
9. 謎の名無しさん
検事が「2人が少年を傷つけた証拠はない」と認めておきながら、まだ捜査中だからと再審を先送りしたのがすごい。無実かもしれない2人を刑務所に入れたまま、山の少年の身元が分かるまで待てってことだよね。
10. 謎の名無しさん
自分の説。帰ってきたのはパクを名乗る別の少年で、金持ちの旦那が妾を刑務所から出すために雇った。母親は悲しみのあまり受け入れたか、金をもらって話を合わせた。
11. 謎の名無しさん(>>10への返信)
当時の金持ちが、総督府の司法をだますような真似をするとは思えないな。愛は人を狂わせるとは言うけど、本妻に逆らって妾と同じ家に住むことすらできなかった人だよ。
12. 謎の名無しさん
母親が悲しみのあまり偽者を受け入れたとしても、本物のパクを知ってる近所の人たちが黙ってないでしょ。村ぐるみでだまされるとは思えない。
13. 謎の名無しさん
偽者が新聞で事情を知ってなりすました、って線も考えたけど、この件が新聞に出たのは本人が帰ってきたあとの11月下旬らしい。報道を読んで細かい事情まで知るのは無理だよ。
14. 謎の名無しさん
一番不思議なのはここ。自白が強いられたものなら、どうして帰ってきた本人の話と合うんだろう。2人とも嘘をついてるのに、その話がたまたま本当のことと一致するなんて考えにくい。
15. 謎の名無しさん(>>14への返信)
韓国語の記事を読むと、実はそこまで一致してないんだよ。本人の話では、朝に叩かれて酒幕を出ただけで、夜の山には行ってない。合ってるのは「朝に叩いた」ところまでで、山で首を絞めたという部分は本人の話とつながらない。
16. 謎の名無しさん
山の遺体は、あの2人の前の被害者だったんじゃないか。少年を山に連れ出して殴るような人たちなら、初めてじゃない気がする。
17. 謎の名無しさん(>>16への返信)
ただ、警察がパクの名前にたどり着いたのは、あの辺りで行方不明者を探したからなんだ。ほかに消えた少年の届けは出てなかった。もっとも、使用人は流れ者も多いから、それで何かが言えるわけでもない。
18. 謎の名無しさん
もっと暗い可能性もある。気がついたパク本人が、仕返しを恐れて自分が死んだことにしようと、別の少年を殺して身代わりにした。2人が有罪になったと聞いて、もう安全だと思って帰ってきた、とか。
19. 謎の名無しさん(>>18への返信)
それはさすがに考えにくい。別の子を殺せるくらいなら、女主人と使用人のほうを狙うでしょ。それに、その子はどこの誰で、地元の子ならなぜ誰も行方不明だと届けなかったのか、という疑問はそのまま残る。
20. 謎の名無しさん
旦那が裏で動いたんじゃないか。妾に言い寄った若い男を金の力で突き止めて殺し、浮気した妾に罪をかぶせた。当時の解剖なら、遺体の年齢も「若い男」くらいしか分からなかったかもしれない。
21. 謎の名無しさん(>>20への返信)
スレ主だけど、当時の検視の精度は保証できないにしても、解剖した人たちは遺体を大人じゃなく10代の少年だとかなり確信してたみたい。
22. 謎の名無しさん
身元の決め手が、ほとんど母親の確認だけだったのが怖い。死後1週間で顔も分からない遺体を、「息子さんですか」と聞かれて泣きながら見たら、そう見えてしまうよ。
23. 謎の名無しさん(>>22への返信)
しかも母親は服が違うって言ってるのに、警察は服を証拠として残さず、遺体ごと渡してる。あれが手元にあれば、少なくとも身元の手がかりにはなったはずなのに。
24. 謎の名無しさん
最初、英語の説明に出てくる「A字の枠」が何なのか分からなかったけど、背負子のことか。それが遺体のそばにあったなら、あの少年は荷運びの仕事の途中だったのかもしれない。
25. 謎の名無しさん
パクも元は物乞いの一団にまじって流れ歩いてたらしいね。同じように春先に家を出て、村から村へ働き口を探してた少年なら、いなくなっても地元で届ける人はいない。身元が分からないのも当然かもしれない。
26. 謎の名無しさん
遺体は別の場所から運ばれてきたんじゃないかな。殺した場所から離れた田舎の山に捨てれば足がつきにくい。たまたまパクの騒ぎが重なったせいで、余計にうまく隠れてしまった。
27. 謎の名無しさん
自分には、身元の分からない遺体を、ちょうど少年を叩いて追い出した2人に結びつけて片づけたように見える。遺体の傷が、叩いたという話と合っていれば、なおさら話を作りやすい。
28. 謎の名無しさん(>>27への返信)
ただ、使用人の男は検事の調べでも法廷でも認めて、控訴もしないで服役してるんだよね。女主人が否認に転じたのとは対照的で、全部が無理やりだったのかどうかは、記録だけでは言い切れない。
29. 謎の名無しさん
17世紀イングランドの「キャムデンの怪事件」を思い出した。使用人が「母と兄が主人を殺した」と言い出して、親子3人が絞首刑になったのに、2年後に主人本人が帰ってきた。ただ、あっちは遺体が見つかってない。こっちは遺体がある分、もっと気味が悪い。
30. 謎の名無しさん
パクはそのあと故郷で母親と農業をして暮らしたそうだ。16歳なら、日本の統治が終わるのも朝鮮戦争も見たかもしれない。彼は名前を取り戻した。でも彼の名前で葬られた少年は、今も名前がないままだ。
未解決の謎
山で少年がひとり死んだこと、それがパク・チャンスではなかったこと、有罪とされた2人が再審で無罪になったこと。分かっているのはそこまでだ。身元の手がかりだった服は遺体ごと母親に渡されて墓に入り、唯一の物証だった手ぬぐいは持ち主が分からない。山の少年を誰が、なぜ殺したのか。警察は調べ直したが、犯人どころか少年の身元さえ突き止められなかった。
振り返ると、取り違えはひとつの失敗で起きたのではない。死後1週間の遺体、「パク・チャンスか」と尋ねる警察、涙で遺体をよく見られなかった母親、聞き流された「服が違う」の一言。そこへ、パク少年を山で殺したというチョの自白が重なった。母親の確認が自白を裏づけ、自白が母親の確認を裏づける形で、どちらも疑われないまま判決まで進んだ。
それでも残る謎がある。チョ・ギジュンはなぜ、検事の前でも法廷でも罪を認め続け、控訴もしなかったのか。無罪になったときも、その理由を語らなかったとされる。パク少年が朝に酒幕を出たという話が正しければ、自白にある夜の山の場面は、どこから来たのか。
パク・チャンスは名前を取り戻し、故郷で母親と暮らした。その名前で共同墓地に葬られた少年は、どこの誰だったのか。墓の場所も伝わらないまま、96年がたつ。
出典:r/UnresolvedMysteries 元スレ/新東亜「青陽少年殺害事件ミステリー」(チョン・ボングァン、2007年10月号)/ナムウィキ「青陽少年殺人事件」/『毎日申報』(1930年11月)・『別乾坤』(1931年1月号・8月号)は新東亜の記事に引かれた内容による

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