1980年11月6日の夕方、アイダホ州アイダホフォールズ近郊の酪農場から一本の電話がかかった。かけたのは、そこで住み込みで働いていた20歳の青年ランドール・ディーン・リーチ。相手は母親で、その日は母の誕生日だった。電話口の彼は上機嫌で、これからオレゴン州にいるきょうだいの家を目指すこと、その前に北カリフォルニアに寄ってみたいことを話し、互いに愛情の言葉を交わして受話器を置いた。
翌朝、彼は洗ってもらうために預けた作業用のジーンズと、受け取っていない給料の小切手を農場に残したまま、東へ延びる道を歩いて去っていく姿を目撃されている。それが最後だった。全米規模の高校生コンテストで優勝し、ホワイトハウスに招かれた経歴を持つ青年は、それから45年、どこにも現れていない。
事件の概要
🗓️ 最後の連絡:1980年11月6日(母への電話)/最後の目撃は11月7日の朝
🌫️ 場所:米アイダホ州アイダホフォールズ近郊の酪農場
👤 行方不明者:ランドール・ディーン・リーチ(当時20歳・男性)
🔍 状況:ヒッチハイクで西へ向かう途中、住み込みで働いていた農場を早朝に徒歩で離れ、以後まったく消息がない
🕯️ 現在:45年間、遺体も生活の痕跡も見つかっていない。DNAは国のデータベースに登録され、各地の身元不明遺体との照合が続いている
ランドールは1960年7月28日生まれ。思春期をウィスコンシン州シーボイガン郡※近くのハワーズグローブという静かな村で過ごした。父親はレイクランド大学で哲学と宗教学を教える教授で、同時にメソジスト教会※の牧師でもあった。母親は小学校の教師。きょうだいは3人。学問と信仰が日常の一部にある家庭だった。
※ シーボイガン郡:米ウィスコンシン州東部、ミシガン湖に面した郡。シカゴとミルウォーキーの北にあたる、酪農と製造業の土地。
※ メソジスト教会:プロテスタントの一派。米国では信徒数の多い教派のひとつで、地域の教会が学校や福祉活動と強く結びついている。
高校最終学年のとき、彼はセンチュリーIII・リーダーズ・プログラム※で全米優勝している。論文のテーマは軍拡競争。副賞は1万ドルの奨学金と、ホワイトハウスで自分の考えを述べる機会だった。家族が語る彼は、頭が切れるだけでなく人なつこく、誰とでもすぐ友だちになれて、新しいことに飛び込みたがる青年だった。ピアノ、ドラム、ギターを弾いた。
※ センチュリーIII・リーダーズ・プログラム:かつて米国で行われていた高校最終学年生を対象とする全国規模の表彰制度。学力ではなくリーダーシップ・地域活動・時事問題への見識を評価し、州代表を経て全米優勝者を選んだ。
転機は大学1年のときに訪れる。1979年春、彼はフレンズ・ワールド・カレッジへ移り、学部の残りを東アフリカで学ぶことを選んだ。発展途上国の困難を「もっと知りたい」というのが理由で、将来は外交の仕事に就きたいとも話していたという。だが1979年12月に帰国した彼を見て、きょうだいの一人は違和感を覚えた。難民支援の現場を目の当たりにしてきた彼はどこか幻滅した様子で、体は栄養状態が悪くなっていた。
帰国後の彼は物質主義そのものを拒むようになる。父親によれば、清貧を誓った修道士アッシジのフランチェスコを理想として語り始めた。そして大学をやめた。理由のひとつは、前年に手にした奨学金の出どころが石油会社だったこと。多国籍企業が途上国から搾り取る構造に納得できない、という筋の通し方だった。1980年夏には近所の農場で短期の仕事に就き、その頃に見たカーソン&バーンズ・サーカスの公演をきっかけに一座で働き始める。「チーフ」と呼ばれる先住民の男性が開く祈りの集まりに通い、自分は生まれ変わったキリスト教徒だと宣言したのもこの時期だった。
10月、彼はサーカスを離れて西へ向かう旅を再開する。目的地は、家族とともにオレゴン州ベンドへ引っ越したばかりのきょうだいの家。移動手段はヒッチハイクだった。11月初めにサウスダコタの祖父母の家へ立ち寄り、電話記録からはモンタナ州のビリングス、リビングストン、ボーズマンにも短く滞在したことが分かっている。そして11月4日、アイダホフォールズに着いた。
この土地で彼は酪農場の仕事を得る。農場主は建てかけの小屋を手伝うことを条件に、敷地内で寝泊まりすることを認めた。ある晩に宗教の話になったとき、他の信仰を知りたがる彼のために、農場主は自分が属する末日聖徒イエス・キリスト教会※の宣教師二人を呼んだ。二人は夕食をともにし、2時間ほど質問に答え、帰り際に聖書を1冊置いていった。
※ 末日聖徒イエス・キリスト教会:日本では「モルモン教」の通称で知られる教派。若い信徒が2年ほど各地に派遣されて布教活動を行う制度があり、ここで訪ねてきた「宣教師」もその若者たちを指す。
判明している事実
最後の電話は母の誕生日
11月6日の夕方5時ごろ、小屋の建築を手伝い終えたランドールは、農場主夫妻に電話を借りたいと申し出た。相手は母親で、その日は誕生日だった。母親は後に、息子の声はいつも通り明るかったと語っている。彼は、オレゴンのきょうだいの家へ行く前に、北カリフォルニアにある豆腐の工場を見てみたいと話した。互いに愛情の言葉を交わして、彼のほうから受話器を置いた。
置いていかれたジーンズと給料
電話の後、農場主の妻が洗う物があれば出すように言い、彼は作業用のジーンズを1本渡している。翌11月7日の朝6時半から7時半のあいだ、乳舎へ向かった農場主が、東の町の方角へ歩いていく彼の姿を見た。別れの挨拶はなかった。寝泊まりしていた小屋から私物はすべて運び出されていたが、預けたジーンズと未受領の給料の小切手だけがそのまま残されていた。農場主はその二つを持ってトラックで数マイル追いかけたが、姿は見つからなかった。
届かなかった運転免許証
アイダホフォールズに着いた11月4日、彼は実家に電話をかけ、父親に運転免許証を農場宛てで送ってほしいと頼んでいる。父親はすぐ送ったが、届いたのは彼が農場を離れた後だった。数日先までそこにいる前提で動いていた人物が、届くのを待たずに出ていったことになる。父親は後年までこの点が腑に落ちないと語っていた。彼は身分を証明するものを何も持たないまま道に出たことになる。
数か月続いた無言電話
失踪の届け出から間もなく、ウィスコンシンの実家と、オレゴンに移ったばかりのきょうだいの家に、無言の電話がかかるようになった。相手は何も話さず、回線だけがつながっている。きょうだいの一人によれば、週に二、三回、数か月にわたって続いたという。家族は本人かもしれないと考え、受話器に向かって普通に話しかけた。当時の公衆電話は、硬貨を入れなくても番号を回して相手を呼び出すところまではでき、こちらの声だけが届かない——学生時代、迎えを頼むときに使った手だったからである。逆探知はほとんど成功しなかったが、オレゴンにかかった1本だけは南西オレゴンからの発信と判明している。
登録されていなかった行方不明者
父親は地元ウィスコンシン、最後の目撃地アイダホフォールズ、目的地オレゴン州ベンドの三か所に届け出ようとしたが、当初は「20歳の成人は自分の意思でどこへ行ってもよい」と言われ、受理までに手間取っている。翌1981年の初夏、両親はアイダホの警察が息子を行方不明者として登録すらしていなかったことを知り、理由を問う手紙を送った。返ってきた文面は、本人の意思でこの地域を離れたことは明らかで、危険な状態にあるとは認められない、という趣旨だった。
主な仮説
仮説1:自分の意思で社会から降りた
警察が当初採ったのがこの見方である。帰国後の彼は物質主義を否定し、大学をやめ、賞金の出どころを理由に受賞そのものを拒み、清貧の修道士を理想に掲げていた。身分証を持たない移動も、受け取らなかった給料も、その延長として読める。噛み合わないのは失踪前日の電話の中身だ。北カリフォルニアに寄ってからオレゴンへ、という具体的な予定を母親に話し、きょうだいに会えるのを楽しみにしていた。行き先を消そうとしている人間の話し方ではない。免許証を父親に送らせた行動も逆を向いている。そして45年、社会保障番号にも出入国の記録にも何ひとつ引っかかっていない。
仮説2:心身の危機のさなかだった
アフリカから帰った時点で栄養状態が悪く、そこから数か月で価値観も信仰も生活も総入れ替えになっている。20歳という年齢は、男性の場合に精神疾患の発症が集中する時期とも重なる。何も言わずに歩き去った行動も、この線なら説明しやすい。ただし、近くで見ていた農場主は「感じのいい、頭の切れる若者」と評しており、前日の電話でも母親は異変を感じていない。荷物をきちんとまとめて出ている点も、混乱の最中にしては整いすぎている。診断された記録はなく、外からの推測にとどまる。
仮説3:路上での事故、あるいは寒さによる死
11月上旬の東アイダホは、朝には氷点下まで下がる。ヒッチハイクは車に乗っている時間より、次の車を待って歩く時間のほうが長い。農場主が数マイル追って見つからなかったという事実は、彼が早い段階で車に乗ったか道を外れたことを示している。人が通らない場所で動けなくなれば、遺体が見つからないまま何十年も過ぎることは現実にある。噛み合わないのは、45年のあいだ遺留品ひとつ出ていないこと。捜索範囲が最初から定まらず、この説は否定も証明もできないまま残っている。
仮説4:第三者による事件
身分証を持たない単独のヒッチハイカーは、被害に遭っても身元不明の遺体(ジョン・ドウ)※として処理されやすい。実際、彼が向かっていた方面では1980年10月から1981年2月にかけて連続殺人犯が活動していた。ただし、その人物の被害者はほぼ女性で、唯一の男性被害者も本来の標的ではなかったとみられている。時期と地域が重なるだけで結びつけるには根拠が薄い。なお、農場を離れた直後に何かがあったのではという見方はネット上に古くからあるが、当時の捜査で関係者は事情聴取を受け嫌疑なしと結論が出ており、特定の個人を犯人として名指しできる材料は存在しない。
※ ジョン・ドウ:米国で身元不明の男性の遺体・人物に付けられる仮名。女性は「ジェーン・ドウ」。1970〜80年代のヒッチハイカーには、身分証がないまま亡くなり長期間ジョン・ドウのままだった例が少なくない。
海外の反応
1. 謎の名無しさん
素直に読むと、精神的にかなり不安定な時期だったんじゃないかと思う。アフリカから帰って価値観がひっくり返り、大学をやめ、サーカスに入り、数か月で信仰まで変わっている。20歳でこの振れ幅は速すぎる。
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
年齢もひっかかる。男性の場合、統合失調症の発症が多いのは18〜25歳とされていて、彼はちょうどその真ん中にいる。診断なんて誰にもできないけど、可能性の一つとしては頭に置いておきたい。
3. 謎の名無しさん
一方で、農場主は「感じのいい、頭の切れる若者だった」と話しているし、前日の電話でも母親は上機嫌だったと言っている。周りから見て破綻していた形跡はないんだよな。
4. 謎の名無しさん
いちばん引っかかるのは、洗ってもらうために預けたジーンズと未受領の給料を置いていったこと。翌朝に出るつもりなら前の晩に洗濯は頼まないし、小切手も普通は受け取ってから出る。
5. 謎の名無しさん(>>4への返信)
小切手のほうは説明がつかなくもない。彼は物質主義そのものを否定していたわけで、金を置いていくのは本人の理屈だと筋が通る。どうしても説明がつかないのは免許証のほうだよ。
6. 謎の名無しさん
その免許証がこの件の核心だと思う。11月4日に自分から父親に電話して農場宛てに送らせている。つまり数日先までそこにいる前提だった。届く前に出ていく理由が、急にできたことになる。
7. 謎の名無しさん
地味だけど気になるのは方角だ。目的地はオレゴンだから西のはずなのに、目撃されたときは東の町のほうへ歩いていた。真逆に向かっている。
8. 謎の名無しさん(>>7への返信)
町へ出ないと幹線道路にもバスにも乗れないから、いったん東へ向かうのは不自然じゃない。ただ、そこから先の足取りが完全に切れている。町に着いていれば、誰か一人くらいは覚えていそうなものだけど。
9. 謎の名無しさん
農場主がトラックで追って追いつけなかったなら、出てすぐ誰かの車に乗ったと考えるのが自然だ。乗せた相手が悪かったか、次の車を待つあいだに11月の寒さにやられたか。家族との仲を思うと、自分から縁を切ったとは思えない。
10. 謎の名無しさん(>>9への返信)
うちの親戚も80年代に、似た状態でヒッチハイクに出たまま行方不明になった。社会に幻滅して急に宗教の話をするようになる流れまでそっくりだ。実際は遠い州で亡くなっていて、何年も身元不明のままだった。DNA鑑定でやっと名前が戻ってきた。
11. 謎の名無しさん(>>9への返信)
今年、アイオワの納屋の干し草の間から見つかった遺体の身元が判明したという話を読んだ。ヒッチハイク中に寒さをしのごうと入り込んで、そのまま隙間に落ちたらしい。彼も誰も見に行かない建物の中にいる可能性はある。
12. 謎の名無しさん
田舎住まいの感覚だと、トラックなら歩いている人間にすぐ追いつく。数マイル走って見つからないのは早すぎる。それに農業地帯は車が少なくてヒッチハイクは基本ひたすら歩くことになるし、拾ったのが近所の人間ならその日のうちに噂になる。
13. 謎の名無しさん(>>12への返信)
そこから先を個人の名指しに持っていくのはやめたほうがいい。当時の警察はきちんと事情を聴いて疑いなしと結論を出している。45年前の証言の食い違いだけで人を犯人扱いするのは危うい。
14. 謎の名無しさん
無言電話の話がいちばんつらい。失踪の後、ウィスコンシンの実家にもオレゴンの家にも、週に二、三回、何も言わない電話がかかってくる。それが何か月も続いた。
15. 謎の名無しさん(>>14への返信)
あれは当時の公衆電話の仕組みを知らないと意味が分からない。小銭を入れなくても番号は回せて、相手を呼び出すところまではできる。ただ、こちらの声だけは届かない。だから家族は「本人かもしれない」と考えた。
16. 謎の名無しさん
無言電話にあまり意味を見出さないほうがいいとも思う。当時は間違い電話も自動発信の営業電話もいくらでもあった。ただ、オレゴンにかかった1本の発信元が南西オレゴンだと分かっている点だけは切り捨てられない。
17. 謎の名無しさん
アイダホの警察が行方不明者として登録すらしていなかった、というくだりで声が出た。家族が翌年問い合わせて初めて分かったわけで、いちばん手がかりが残っていた時期を丸ごと捨てている。
18. 謎の名無しさん(>>17への返信)
返ってきた手紙が「本人の意思でこの地域を離れたことは明らかで、危険な状態にあるとは認められない」だからな。調べていないのに、なぜ明らかだと言えるのか。
19. 謎の名無しさん
家族の動きがすごい。1981年1月におじ二人が西部へ車で出て、四つの州にポスターを貼って回っている。居留地や国立公園、大学にも手紙を送った。データベースも携帯もない時代に、できることは全部やっている。
20. 謎の名無しさん
最初に思い浮かんだのはクリストファー・マッキャンドレス(映画『イントゥ・ザ・ワイルド』の人)だった。全部捨てるという筋書きは重なる。ただ彼は家族と切れていないから、そこまで単純な話にはならない。
21. 謎の名無しさん
連続殺人犯の線は正直あまり噛み合っていない。当時その一帯で活動していた人物は確かにいるが、被害者はほぼ女性で、唯一の男性も本来の標的ではなかったとされている。時期と場所が重なるだけで結びつけるのは乱暴だ。
22. 謎の名無しさん(>>21への返信)
名前が同じランドールなのが妙に据わりが悪いだけで、それ以上の意味はないんだよな。当時の西海岸沿いは未解決事件が多すぎて、線を引こうと思えばいくらでも引けてしまう。
23. 謎の名無しさん
宗教の面から見ると、あの時期の彼はいちばん引き込まれやすい状態だった。祈りの集まりに通い、生まれ変わったと宣言し、その直後に別の教会の宣教師と何時間も話し込んでいる。答えを探す人間に、答えを用意する集団が近づくのは早い。
24. 謎の名無しさん(>>23への返信)
ただ、どこかの集団に入ったとしても45年は長すぎる。親の死にも、きょうだいの家にも一度も連絡がないのは、あれだけ家族と近かった人の行動としては説明がつかない。
25. 謎の名無しさん
体の状態も気になる。アフリカから帰った時点で栄養状態が悪く、失踪の二日前には「今日は断食するから夕食はいらない」と伝えている。11月の東アイダホの朝に、その体で歩いて出ていったことになる。
26. 謎の名無しさん
もしどこかで身元不明の遺体として見つかっていたなら、今の技術ならとっくに名前が戻っているはずだ。DNAは登録され、照合も続いている。まだ一致が出ないのは、そもそも見つかっていないということなんだろう。
27. 謎の名無しさん(>>26への返信)
そうとも限らない。80年代に収容された遺体で、いまだに身元が分からないものは全米に山ほどある。記録が紙のまま眠っていることも多い。それに、見つかっていなければDNAは何の役にも立たない。
28. 謎の名無しさん
賞金の1万ドルは今の物価だと4万ドル前後。大学の3学期分は出る額を、出どころが石油会社だからという理由で手放している。筋は通っているけど、20歳でそこまでやるかと思う。
29. 謎の名無しさん
サーカスの側は調べられたんだろうか。数か月一緒に旅をした一座があるなら、その後で合流していないか、誰かが西で見かけていないか、たどれる相手は何人もいたはずなのに。
30. 謎の名無しさん
父親が2024年10月に亡くなっている。捜し始めてから44年。母親は1989年に亡くなっていて、どちらも答えを知らないままだった。誕生日の電話が最後の会話になった母親のことを考えると、なんとも言えない気持ちになる。
未解決の謎
45年が過ぎても、この件には決定的な材料が一つもない。遺体も遺留品も出ていない。生活の痕跡もない。社会保障番号の照会も、出国記録の確認も空振りに終わった。残っているのは、預けたままのジーンズと、受け取られなかった小切手と、届くのが間に合わなかった免許証だけである。
最大の壁は初動の空白だ。最後の目撃地の警察が行方不明者として登録すらしていなかったため、道路沿いの聞き込みも、近隣で見つかった身元不明遺体との照合も行われないまま何年も過ぎた。1980年代に各地で収容された遺体の記録は紙のまま残っているものが多く、いま照合しようにも情報が足りないことがある。DNAがCODIS※に登録された現在も、一致は出ていない。
※ CODIS:米連邦捜査局(FBI)が運用するDNAデータベース。犯罪現場や身元不明遺体から採取されたDNAと、行方不明者の家族から提供されたDNAを全国規模で突き合わせる仕組み。
自発的な失踪という見方を、家族は一貫して否定してきた。根拠は最後の電話の中身である。北カリフォルニアの豆腐工場を見てからオレゴンへ、という予定は、行き先を消そうとしている人間の話し方ではない。免許証を送らせた行動も同じ方向を向いていない。もっとも、価値観を根こそぎ入れ替えた直後の20歳が何を考えていたのかを、外から確定させることは誰にもできない。
捜査当局が今も見ている道は二つしかない。どこかで見つかった遺体の身元が彼だと判明するか、当時の何かを知る誰かが名乗り出るか。生存の可能性は高くないと考えられている。両親はどちらの答えも聞かないまま亡くなった。母親は1989年8月、父親は2024年10月。母の誕生日にかかってきたあの電話から45年、ランドール・ディーン・リーチは、いまも「行方不明」のままである。
出典:r/UnresolvedMysteries 元スレ / NamUs(MP7429) / The Charley Project


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