1988年3月23日の水曜、白昼のロンドン近郊。走行中の通勤列車の、外へのドア以外どこにも通じていない「密室」客室で、26歳の女性が11ヶ所を刺されて息絶えた。乗客は約70人。すぐ隣の客室にいた乗客は悲鳴と争う物音を聞いていた。それなのに、犯人が乗り込む姿も、降りる姿も、誰ひとり目にしていない。現場には犯人自身の血液が残され、そこから完全なDNAが採取された。だが36年以上たった今も、照合できる相手はどこにも現れていない。
事件の概要
🗓️ 発生日:1988年3月23日(水)午後
🌫️ 場所:ロンドン近郊、ブリクストン〜ヴィクトリア駅間を走る通勤列車内
👤 被害者:デボラ・”デビー”・リンズリー(26歳、ケント州ブロムリー出身)
🔍 状況:他の客室と行き来できない非通路式の客室で、顔・首・腹部など11ヶ所を刺され死亡
🕯️ 発見/結末:14時50分にヴィクトリア駅2番ホーム着、車掌が血まみれの客室と遺体を発見。以後36年以上未解決
デビー・リンズリーはエディンバラのホテルで支配人として働き、この時はホテル経営の講習を受けるためロンドンに戻っていた。実家で両親と過ごし、2週間後に控えた兄ゴードンの結婚式でブライズメイドを務めることを楽しみにしていたという。事件の当日、兄が彼女をペッツ・ウッド駅まで車で送り、彼女はロンドン・ヴィクトリア行きの14時16分発の列車に乗り込んだ。通常なら途中いくつかの駅に停まって34分ほどの道のりだった。
彼女が入ったのは、旧型車両の「ドッグボックス」※と呼ばれる客室だった(喫煙が許されていたためだと見られている)。6人掛けの小部屋がいくつも並ぶが、車内で隣の部屋へ移ることはできず、出入り口はホームに直接出るドアだけ。走行中はそこにいる者どうしが、次の停車まで完全に閉じ込められる構造だった。ブリクストンからヴィクトリアまでのわずか6分ほどの区間で、彼女は激しく襲われたとみられている。
※ ドッグボックス:英国の旧型客車に多かった非通路式の客室。向かい合わせの座席だけで通路がなく、出入り口が線路脇のドアに直結している。走行中は事実上その小部屋に閉じ込められるため、後にこの事件を機に廃止が早まった。
判明している事実
11ヶ所の刺し傷、犯人も負傷した
デビーは顔・首・腹部を中心に11回刺され、うち心臓周辺に少なくとも5ヶ所の傷があった。致命傷はそのうちの一つ。彼女は激しく抵抗し、手には防御創が残り、犯人にも傷を負わせていた。現場に残された血液の一部は犯人自身のものだった。
犯人のDNAはあるのに照合先がない
2002年、DNA技術の進歩を受けて事件は再捜査された。現場の犯人の血液から完全なDNAプロファイルが作られたが、国のデータベースの誰とも一致しなかった。2013年には2万ポンドの懸賞金が掛けられ、改めて情報提供が呼びかけられた。
悲鳴は聞かれたが非常コードは引かれず
隣の客室にいたフランス人のオペア(住み込みの子守)は、ブリクストンを出た直後に悲鳴と揉み合う物音を聞いていた。だがけんかか性的暴行だと思い、非常用のコードを引かなかった。この点は後の審問で批判されることになる。
凶器は未発見、目撃された複数の男
凶器は見つかっていないが、刃渡り13〜19センチほどの重い刃物とみられている。捜査線上には、列車から飛び降りた小柄でがっしりした男、ペンジ・イースト駅で降りた「薄汚れた金髪の男」、オーピントンで乗ってくる女性たちを凝視していた男などが浮かんだ。事件はBBCの『クライムウォッチUK』でも取り上げられた。
事件が「密室客室」の廃止を早めた
この殺人を受け、鉄道側は他の車室と行き来できない客室車両の撤去を急ぎ、危険な車両を識別できるよう赤い帯を塗って乗客が避けられるようにした。車掌にもより頻繁な巡回が指示された。
主な仮説
仮説1:地元の常習的な暴力犯による衝動的犯行
捜査を指揮したガイ・ミルズ警視は、犯行を「残忍で凶暴」と評し、あれほどの激しさから犯人は暴力の前科を重ねた人物ではないかと推測した。密室に一人でいる女性という「機会」を目にして、突発的に牙を剝いた——という見立てである。狙って乗ってきたのか、たまたま同室になったのかは、今も分からない。
仮説2:血まみれの犯人はどうやって紛れたか
11回も刺して抵抗も受けた犯人は、相当な返り血を浴びていたはずだ。それでも人目を引かずに立ち去れた理由として、コートを羽織って汚れを隠した、終点ヴィクトリア駅のトイレで洗い流した、といった推測がある。さらにこの日はサッカーの試合を巡る騒動もあり、怪我をしたサポーターに紛れられたのでは、という声もある。
仮説3:地元で知られた人物への疑い(証拠不十分で未起訴)
ネット上では、捜査に関わった人物の身内だと名乗る書き込みもあり、その界隈をうろついていた地元の男が強く疑われていたが、決め手を欠いて起訴に至らなかった、という証言が語られた。あくまで伝聞であり、名前も明かされていないため、事実として扱えるものではない。だが「切符も買わず、汚れた身なりでも怪しまれにくい人物」という像は、この事件の状況とは奇妙に噛み合う。
仮説4:DNAが照合されない理由——故人か、記録に残らぬ人物か
2002年以降に同じDNAで結びつく別の事件が出てきていない以上、犯人はその前に亡くなっているとの見方が根強い。あるいは、DNAデータベースに登録されるような検挙をされないまま生き延びた可能性もある。傷を負って帰ったはずの犯人を、身近な誰も不審に思わなかったのか——という違和感だけが残る。
海外の反応
1. 謎の名無しさん
水曜の昼下がりの各駅停車って、実はガラガラなんだよね。70人と聞くと多そうだけど4両に散っていたし、当時のこの型式は満員でも400人近く乗る。1/4も埋まってなかったはずだ。それより気になるのは、ペンジ・イースト駅で客室を移った男がいたという話。あの構造でわざわざ隣の部屋に移るなんて、かなり不自然だよ。
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
つい最近までこの路線に乗ってた。ケント方面から都心に直行する通勤電車と違って、この各駅停車はいつも空いてる。だから逆に犯人は駅ごとに車両を移れた。ホームがガラガラな駅も多いから、移動はむしろ目立ったと思う。
3. 謎の名無しさん
うちの親戚がこの事件の捜査に深く関わってた。地元では、その界隈をうろついていたホームレスの男の犯行だと広く見られていたらしい。名前は出さないけど、2000年代初頭まで近所にいた人物だったと。子どもの頃、その男が歩いているのを見るたびにゾッとしたのを覚えてる。ただ、起訴するだけの証拠は揃わなかった。
4. 謎の名無しさん(>>3への返信)
ロンドンでは目的もなく電車を乗り継ぐホームレスは珍しくないし、80年代ならなおさらだったと思う。切符も買わず駅員の少ない駅から乗ったなら、そもそも乗車を証明するのが難しい。それに薄汚れた服を着た人を見ても、他人の血だなんて普通は思わないよね。
5. 謎の名無しさん(>>3への返信)
でも犯人のDNAがあるなら、その男のと照合すれば一発で分かったんじゃないの?なんでやらなかったんだろう。
6. 謎の名無しさん
DNA型鑑定がいつ一般的になったのか正確には知らないけど、その疑いをかけられた人物は2000年代初頭に亡くなったと聞いてる。照合が行われる前に亡くなっていた可能性もあるってことだよね。今度その親戚に会ったら、詳しく聞いてみるつもりだ。
7. 謎の名無しさん
ネット時代の鉄則だけど、一般市民は——どれだけ確信があっても——容疑者の名前を出しちゃいけない。危険だし、実際の裁判を台無しにしかねない。英国だろうと米国だろうと、司法制度は優秀だけど欠陥もある。だからこそ、こういう時は制度に委ねるべきなんだ。
8. 謎の名無しさん
彼女は犯人と2人きりであの客室にいたってこと?列車の構造がいまいち分からないんだけど、誰か教えてほしい。
9. 謎の名無しさん(>>8への返信)
英国の客車には大きく3種類あって、①全席が一つの空間に並ぶオープン型、②片側の通路で各小部屋が繋がるコリドー型、③通路のない小部屋が並ぶノン・コリドー型。彼女がいたのは③で、走行中は外へ飛び降りない限り事実上そこに閉じ込められる。今は安全面もあって①に置き換わってるよ。
10. 謎の名無しさん(>>8への返信)
昔の列車には「ドッグボックス」と呼ばれる客室があった。向かい合わせの2列の座席だけで、今みたいに車両の端まで歩いて行けない。出入り口はホームに直接出るドアだけ。だから誰かが乗り込んできたら、その人が次の駅で降りるまで一緒にいるしかなかったんだ。
11. 謎の名無しさん
11回も刺して抵抗もされてるなら、犯人は返り血で全身ぐしょ濡れだったはず。あれだけの人がいた列車で、それが誰の目にも留まらずに立ち去れたなんて、正直信じがたいよ。
12. 謎の名無しさん(>>11への返信)
完全に推測だけど、コートを着ていて、犯行中は座席上の網棚に置いておいたんじゃないかな。返り血で汚れた服の上から、降りる前にそのコートを羽織れば、外からはそれなりに隠せた気がする。
13. 謎の名無しさん
ヴィクトリア駅には確か1階にトイレがあった。列車を降りてそこへ直行すれば、人目につく前に手や顔の血を洗い流せたはず。あの終点の混雑なら、足早に消えても不自然じゃないと思う。
14. 謎の名無しさん
確かこの日、市内かその前後で、サッカーの試合を巡って英国とオランダのサポーターが衝突してたはず。だとしたら、犯人は怪我をしたフーリガンのふりをして紛れ込めたのかもしれないね。
15. 謎の名無しさん(>>14への返信)
その通りで、まさにこの日、イングランドがウェンブリーでオランダと親善試合をやってる。両サポーターが揉めている報道や映像もちゃんと残っているよ。
16. 謎の名無しさん
オペアの女性が何もできなかったことを責める声もあるけど、あれは極限状態では誰にでも起こること。人間の脳は「闘争か逃走」とよく言われるけど、実際には「闘争・逃走・硬直」の3つ。災害の生存者の証言でも、周りの人が完全に固まってしまったという話は本当に多いんだ。
17. 謎の名無しさん
80年代がどれだけ暴力的な時代だったかを思い出させる事件だよね。連続殺人犯の全盛期だったし、「日常的な」暴力そのものも今よりずっと多かった。サッカーのフーリガンは手がつけられず、酒の量も桁違い。それが全部積み重なっていた時代だ。
18. 謎の名無しさん
そもそも、空いてる時だと見知らぬ他人と30分以上も密室に閉じ込められうる客室を、良い設計だと思った奴がいたこと自体が正気じゃない。路線によってはもっと長い。よくこんな車両を平気で走らせていたよ。
19. 謎の名無しさん(>>18への返信)
もしくは線路側に落ちる危険もあった。昔、駅で反対側のドアを開けてしまって、危うく線路に転げ落ちかけたことがある。あれは欠陥だったのか仕様だったのか、いまだに分からない。
20. 謎の名無しさん
この話、ドラマ『クラッカー』の、通勤列車の客室で乗客が殺される回を何となく思い出す。せめて事件が解決して、残された家族が少しでも区切りをつけられればと願うよ。
21. 謎の名無しさん(>>20への返信)
そのクラッカーの回、まさにデビーの事件が下敷きになっているらしいよ。当時それだけ世間に衝撃を与えた事件だったってことだよね。
22. 謎の名無しさん
38年も経つのか。自分が生まれた年の、しかも同じ月に起きた事件だ。あまりに理不尽で、あまりに無意味な死だと思う。犯人がのうのうと生きてきたのだとしたら、本当にやりきれない。
23. 謎の名無しさん
採取済みのDNAを、系譜学的な照合に回せないのかな。米国だと家系データベースとの突き合わせで、何十年も前の事件がいくつも解決してるのに。
24. 謎の名無しさん(>>23への返信)
残念だけど、英国ではその手法(消費者系譜DNAの捜査利用)は法律で認められていないんだ。米国みたいに家系サイトのデータを捜査に使うことはできないんだよ。
25. 謎の名無しさん(>>23への返信)
DNAフェノタイピングなら可能かもしれない。試料から容疑者の顔立ちの推定モデルを作る技術で、英国の捜査機関も使っている。犯人がどんな風貌だったか、ある程度は描き出せるかもしれないね。
26. 謎の名無しさん
犯人はもう死んでると思う。ああいうタイプは一度で終わることが滅多にない。もし2002年以降にも犯行に及んでいたら、同じDNAで別の事件と結びついていたはずだ。それがないってことは、90年代までに死んだと考えるのが自然だよ。ホームレスだったなら尚更ね。
27. 謎の名無しさん
この事件は前から知ってる。デビーが本当に気の毒だ。むごい殺され方をした上に、正義もまだ果たされていない。せめて——せめて犯人がその後、誰も手にかけていないことを祈るばかりだよ。
28. 謎の名無しさん
親戚が捜査に関わってたって話は生々しくて引き込まれるけど、結局は伝聞なんだよね。地元でそう噂されていた、という以上のものではない。今この事件で確実に手元にあるのは、あの血液から採れたDNAだけだ。そこを見失っちゃいけない気がする。
29. 謎の名無しさん(>>28への返信)
それは同意。ただ、犯人が自分の血を現場に残して立ち去ったという事実は、住所も定まらず、誰も身元を気に留めない人物像とは確かに噛み合うんだ。傷を負って帰っても、心配して問い詰める家族がいなければ、そのまま消えられる。だから完全な作り話とも言い切れないよ。
30. 謎の名無しさん
結局、完全なDNAプロファイルはもう何年も金庫に眠ったままなんだよな。あとは血縁の誰か一人がどこかのデータベースに登録されれば、それで終わる話でもある。デビーのご両親が——お母様は既に亡くなられたそうだけど——せめてお父様が生きているうちに、その日が来てほしい。
未解決の謎
70人近い乗客を乗せた列車の中で、白昼、女性が11回も刺された。隣室の乗客は悲鳴を聞いていた。それでも犯人の出入りを見た者はなく、凶器も見つからないまま36年以上が過ぎた。走行中は外に飛び降りない限り出られない「密室」という構造、非常コードを引く一瞬をためらわせた人間の硬直、そして駅ごとに車両を移れる空いた各駅停車という条件——それらが重なり、犯人は数時間のうちにロンドンのどこへでも消えられた。
最も妥当とされるのは、暴力の前科を持つ人物が、密室に一人でいた女性という機会に衝動的に牙を剝いた、という見立てだ。犯人が自ら傷を負って現場に血を残したことは、皮肉にも決定的な手掛かりになった。完全なDNAプロファイルは存在する。にもかかわらず、照合できる相手が一人も現れないという事実こそが、この事件最大の謎である。犯人はすでに亡くなったのか、それとも一度も検挙されずに今も記録の外側にいるのか。
血を流して帰ったはずの犯人を、家族も友人も本当に誰一人不審に思わなかったのか。その違和感は今も残る。だが裏を返せば、血縁の誰か一人がDNAデータベースに登録された瞬間、この長い沈黙は終わりうる。デビー・リンズリーの遺族が、その報せを聞ける日は来るのだろうか。

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