【1957年】メイン州の貝塚から11世紀の北欧銀貨——ヴァイキングは本当にここまで来たのか

【1957年】メイン州の貝塚から11世紀の北欧銀貨——ヴァイキングは本当にここまで来たのか 都市伝説・陰謀

1957年8月18日、アメリカ・メイン州の小さな入り江で、貝塚を掘っていた二人のアマチュア考古学者が、親指の先ほどの銀の円盤を拾い上げた。発見者はそれを「12世紀のイングランドの硬貨」だと思い込み、20年間、友人や隣人に見せるだけで手元に置き続けた。ところが本人の死後、専門家は一目見て別の答えを出す。これはイングランドのものではない、ノルウェー王の銀貨だ、と。硬貨そのものが本物であることは、いまも誰も疑っていない。問題はその先である——なぜ11世紀の北欧の銀貨が、ヴァイキングの確実な足跡から遥か南に離れたメイン州の海辺に埋まっていたのか。

※ 貝塚:食べ終わった貝殻や獣骨、壊れた道具などを捨て続けてできたゴミ捨て場の遺跡。この場所のものは先住民が残したもので、当時の暮らしぶりを知る一級の資料になる。

※ ヴァイキング:8〜11世紀に北欧(現在のノルウェー・デンマーク・スウェーデン)から海路で各地に進出した人々の総称。北欧語では「ノルド人」と呼ぶ。略奪者のイメージが強いが、実際には交易民・入植者としての性格が濃い。

事件の概要

🗓️ 発見日:1957年8月18日

🌫️ 場所:アメリカ・メイン州 ナスケッグ・ポイントの貝塚「ゴダード遺跡」

👤 発見者:ガイ・メルグレン、エド・ルンゲ(ともにアマチュア考古学者、この浜での発掘は2年目)

🔍 見つかったもの:銀貨1枚。のちにノルウェー王オーラヴ・キュッレの名で1065〜1093年に鋳造された銀貨と判明。首から下げるための穴を開けられた形跡があり、縁の一部は崩れていた

🕯️ その後:発見者が20年間ほぼ公表せずに保管。1978年に注目を集めるが、その直前に本人は死去。硬貨自体は本物と認められた一方、「その場所から出た」という発見の経緯は現在も未証明とされる

北米では「ヴァイキングの遺物」が何度も見つかっては、そのたびに否定されてきた。ビアードモアの遺物、ケンジントンのルーン石碑、ヴィンランド地図——いずれも捏造と結論が出ている。スピリット・ポンド、ヒーヴナー、ショーニーの各ルーン石碑も、ほぼ同じ扱いを受けたままだ。厄介なのは、その多くが「一から作られた偽物」ではないことである。ヨーロッパで出土した本物の遺物を、本来あるはずのない場所に置く——それが北米式の贋作の作法だった。メイン・ペニーも、出てきた瞬間から真っ先にその仲間だと疑われた。

一方で、北欧人が北米に到達していたこと自体は疑われていない。グリーンランドの入植地を除けば、北米本土で確実な遺跡はカナダ・ニューファンドランド島北端のランス・オ・メドーただ1か所だが、そこには芝土と木組みの建物が8棟——住居3、鍛冶場1、工房4——同時代のグリーンランドやアイスランドとまったく同じ様式で並んでいた。この発見によって、ヴィンランド・サガが語ってきた北米の話は、少なくとも根も葉もない作り話ではなくなった。

※ ランス・オ・メドー:カナダ・ニューファンドランド島の北端にある遺跡。コロンブス以前に北欧人が北米本土へ到達していたことを示す、現在のところ唯一確実な物証とされる。ただし何人が住んだのか、恒久的な入植地だったのか単なる寄港地だったのか、どれだけの期間使われたのかは分かっていない。

※ ヴィンランド・サガ:アイスランドに伝わる2つの叙事詩「グリーンランド人のサガ」「赤毛のエイリークのサガ」の総称。北欧人が「ヴィンランド」と呼んだ北米での出来事を語る。もとは口承で、書き留められたのは1200年から1300年頃とみられ、内容には食い違いや曖昧さが多い。

ただし、ここで話を混ぜてはいけない。ランス・オ・メドーが証明したのは「北欧人が北米本土のある1点に到達した」ことであって、「彼らがメイン州まで南下した」ことではない。そもそもヴィンランドがどこまでを指す言葉なのかすら決着していない。ブドウの地、スグリの地、牧草地の地——語義からして三説あり、範囲についても「グリーンランドより西の全域」から「海岸の特定の一区画だけ」まで見解は割れている。サガに出てくる地名ストラウムフィヨルドの比定地に至っては、ボストンからニューファンドランドまで振れ幅がある。北欧人が北米に来ていたことと、この銀貨がメイン州にあった理由は、最初から別の問題なのだ。

判明している事実

1957年8月18日、貝塚の中から出た
ガイ・メルグレンとエド・ルンゲは、ナスケッグ・ポイントの浜で2年目の発掘に入っていた。二人はこの場所を、浜の所有者の名を取って「ゴダード遺跡」と呼んでいる。それまでに出ていたのは石片やナイフといった先住民の道具ばかりだった。その日、ゴミ捨て場である貝塚の中から硬貨が1枚出た。ただしその瞬間の状況——どの層から、どんな状態で現れたのか——を、メルグレンは生涯にわたって詳しく語らなかった。

イングランド王ではなく、北欧王の銀貨だった
メルグレン自身は「12世紀のイングランドで鋳造された硬貨」、さらに絞って「スティーヴン王(在位1135〜1154年)名義の硬貨」だと考えていた。1978年、「アメリカを最初に発見したのはイングランド人だったのか?」と題した短い記事が出て、ようやく専門家の目に触れる。イギリスのコイン商ピーター・シービーはすぐに別の答えを出した。これはイングランドのものではない、ノルウェー王オーラヴ・キュッレの銀貨だ、と。他の専門家も同じ結論に落ち着き、鋳造は1065〜1093年、流通の盛期は12〜13世紀と見積もられた。ゴダード遺跡そのものの年代は1180〜1235年とされているので、時系列に矛盾はない。皮肉なことに、記事が世に出る2週間前にメルグレンは死去している。

※ オーラヴ・キュッレ:11世紀後半のノルウェー王で、「平和王オーラヴ」とも呼ばれる。その名で鋳造された銀貨は、フェロー諸島・シェトランド諸島・ヘブリディーズ諸島からスウェーデン、デンマーク、フィンランド、ブリテン諸島、オランダ、さらにレバノンまで、同時代の他の北欧王の硬貨より広い範囲で見つかっている。

首から下げるための穴と、数百年ぶんの腐食
硬貨は新品同様どころではなかった。一度は穴を開けられて首から下げられていた形跡があり、縁の一部は崩れ落ちている。成分の分析では、厳しい環境に長くさらされた物に特有の広範な腐食が確認された。さらにラマン分光法による解析では、この硬貨が非常に長い期間——数百年に及ぶ可能性がある——水平の姿勢のまま、水が滴り続ける土の中に埋まっていたと読み取れるという。少なくとも、つい最近ヨーロッパの収蔵庫から取り出してきた品の状態ではない。

※ ラマン分光法:物質にレーザーを当て、散乱した光のわずかな波長のずれから、表面にどんな化合物ができているかを調べる手法。金属の腐食生成物の種類と偏りが分かるため、その物体がどんな環境に、どの向きで置かれていたかを推定する材料になる。

ゴダード遺跡は交易品が桁外れに多い
この遺跡自体が奇妙な場所である。数百マイル先で作られた矢じりや土器の破片が、同じ規模の他の遺跡とは比べものにならない量で出てくる。研究者が「桁外れ」と表現するほどで、目立つところのない小さな貝塚が、なぜ交易の結節点のような様相を見せるのかは分かっていない。北欧の銀貨がここから出たという主張を検討するうえで、この性格は無視できない。

北欧のものはこの1枚だけ
一方で、ゴダード遺跡から出た北欧の遺物は、この硬貨のほかに一つもない。鉄の道具も、鋲も、船の部材も、鍛冶の燃えかすも出ていない。研究者の多くは、これを「北欧人自身がこの場所で暮らしていた証拠にはならない」根拠として挙げる。短時間だけ立ち寄って硬貨を1枚落とした、という筋書きは残るが、それを支える別の証拠は今のところ存在しない。

主な仮説

仮説1:先住民の交易網に乗って南へ渡った

研究者の間で最も有力とされる筋書き。ヨーロッパで鋳造された銀貨がランス・オ・メドーか、まだ見つかっていない別の接触地点で北米に渡り、そこから人の手を経てメイン州まで南下した、というものだ。北欧人は北米・グリーンランドで出会った先住民を総称して「スクレリング」と呼び、ある程度の交易を行っていた。断続的ながら400年続いた可能性を示す証拠もある。もっとも、その接触の大半はメインよりずっと北の話である。それでも当時の北東部では、トゥーレ、ドーセット、イヌイット、ベオスックといった集団の勢力が入れ替わり、人も物も動き続けていた。首から下げる穴と摩耗の跡は、この硬貨が長く誰かの首元で揺れていたことを示している。装身具として何人もの手を渡ったのなら、距離はさほど問題にならない。

※ スクレリング:北欧人が北米・グリーンランドで出会った先住民をまとめて呼んだ言葉。「乾いた皮」といった意味とみられ、イヌイットが身につけていた毛皮に由来するという説がある。

※ ドーセット文化:紀元前から紀元1000年代にかけて、カナダ北極圏からグリーンランドにかけて広がっていた先住民の文化。北欧人が北米へ渡った時期は、この文化が後発のトゥーレ文化(現代のイヌイットの祖先)に置き換わっていく転換期にあたる。

仮説2:北欧人自身がメイン州の海岸まで来て落とした

もっと単純に、硬貨の持ち主本人がここまで来ていた、という考え方。ニューファンドランドからメインまでは、当時の船にとって決して届かない距離ではない。ニューブランズウィックやノヴァスコシアに一時的な野営地があったと考える研究者もいて、そこはメイン州の目と鼻の先だ。ランス・オ・メドーからバターナッツ(オニグルミの仲間)の殻が出ていることも、この説を後押しする材料として繰り返し引かれる。あの木は、当時が中世温暖期でどれだけ暖かかったとしても、あんな北では実らないからだ。ただしこの説には大きな弱点がある。ゴダード遺跡から北欧のものは硬貨1枚しか出ていない。人が滞在すれば、鉄も、燃えかすも、壊れた道具も残る。それが何ひとつない。

仮説3:近代に誰かが持ち込んだ——混入、あるいは捏造

硬貨が本物であることと、その場所から出たことは別である、という立場。1957年は、ある専門家が「ヴァイキング贋作の当たり年」と呼ぶほど、北米ヴァイキング説の書籍や記事が相次いだ時期だった。そしてメルグレンはコイン収集家であり、オークションハウスで働いてもいた。北欧の硬貨を手に入れる経路には事欠かない。実際、ノルウェーのグレスリ埋蔵金のように、重複分がヨーロッパや米国のコレクターへ流れた例もある。安いものは75ドルで売られ、取引の記録は残っていない。加えて「あれほど小さな硬貨が貝塚の中から見つかること自体、ほとんど例がない」という、発掘現場の実感からの疑問もある。

※ グレスリ埋蔵金:ノルウェーで見つかった2,301枚の中世銀貨のまとまり。うち数百枚の重複分がヨーロッパと米国のコレクターや博物館へ売却された。メイン・ペニーの入手経路として真っ先に疑われたのが、この流通ルートだった。

ただし反論も強い。メイン・ペニーは硬貨の分類でいう「クラスN」にあたり、これが極めて珍しい。グレスリ埋蔵金から売られたクラスNはわずか41枚で、しかもこれほど特異なものが「重複品」として放出された可能性は低い。他の埋蔵金から流れた線は残るが、確率としては細い。そもそも偽装するつもりなら、当時の北欧世界で最も広く流通していたドイツやアングロサクソンのペニーを使うほうが、入手も説明も桁違いに簡単だった。

※ クラスN:オーラヴ・キュッレ銀貨を、刻まれた頭部の向きなどによって分類したときの区分のひとつ。メイン・ペニーはこの区分に属し、現存が確認されている数は非常に少ない。

仮説4:交易ではなく、偶発的に手に入れた

サガによれば、北欧人と先住民の接触はしばしば暴力に終わっている。硬貨に穴が開いていたことから、倒れた北欧人が身につけていたものを戦利品として持ち帰った、あるいは打ち上げられた遺体や漂着物から拾った、という筋書きも語られてきた。派手な想像に聞こえるが、実のところ交易説とそう遠くはない。どちらも「北欧人と先住民のどこかでの接触」を出発点にしていて、違うのは硬貨が誰の意思で持ち主を変えたかだけである。ただし現状、この説を他の説と切り分けられる物証はない。

海外の反応

1. 謎の名無しさん
ほぼ間違いなく交易網に乗ってあそこまで来たんだと思う。サガに出てくる航海はごく一部で、記録に残らなかった渡航はもっとあったはずだ。大西洋を渡る危険を考えれば、戻って話を残せなかった船があっても不思議じゃない。

2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
最近は、グリーンランドの入植者が何世紀にもわたって対岸の北米本土へ通っていた、という見方が有力になってきている。目当てはセイウチの牙と木材だ。その往復のどこかで物のやり取りが起きたと考えれば、それだけで十分説明はつく。

3. 謎の名無しさん
まとめありがとう。本筋とまったく関係ない質問で申し訳ないんだけど、ラマン分光で「長期間水平に置かれていた」ってどうやって判定するんだ。仕事で多少ラマンを触るけど、何を指標にすればそんな結論になるのか見当もつかない。

4. 謎の名無しさん(>>3への返信)
たぶん溶けたり再析出したりした痕が片面に偏るからじゃないかな。水平に寝ていれば、水が触れ続ける面とそうでない面ではっきり差が出る。自分はラマンではなく赤外分光とX線回折の側だけど、岩の中の団塊を調べるときも同じように水の流れた向きの痕を探す。

5. 謎の名無しさん
たしかランス・オ・メドーからバターナッツの殻が出ている。あの木は、いくら中世が暖かかったとしてもあんな北では実らない。つまり北欧人が南まで採りに行ったか、先住民の交易で北へ運ばれたかのどちらかということになる。

6. 謎の名無しさん(>>5への返信)
中世温暖期はかなり変な時代で、いまでは到底無理なグリーンランドで作物が育っていた。北の限界線が現代の感覚とずれていたことは、この手の話をするときに毎回頭に入れておいたほうがいい。

7. 謎の名無しさん(>>5への返信)
ニューブランズウィックにも北欧人の拠点があったのでは、と考える研究者もいる。根拠はミラミシ川沿いにバターナッツが生えていること。そしてニューブランズウィックはメイン州と地続きで隣り合っている。急に距離の話じゃなくなってくる。

8. 謎の名無しさん
渡航が何十回もあったと考える必要はないと思う。ヴェネツィアのガラス玉が15世紀のアラスカまで届いているけれど、ヴェネツィア人がアラスカに来たわけじゃない。グリーンランド人が資源を採りに行った先で現地の人へ渡り、あとは人から人へ移っていく。それで足りる。

9. 謎の名無しさん
北米にはもう1か所、北欧人の遺跡ではないかと言われている場所がある。バフィン島南東端のタンフィールド谷だ。989年から1020年という年代が出ていて、石造りの建物がある。当時いなかったはずのネズミの糞が出たり、青銅・真鍮・鉄の痕がついた砥石が出たりしている。

10. 謎の名無しさん(>>9への返信)
その砥石の話は毎回出てくるけど、確定した話ではないよ。糸紡ぎの痕跡を根拠にした議論はすでに崩れているし、金属の痕がついた石が1個あるだけで拠点があったことにはならない。第2の遺跡が欲しい気持ちは分かるが、欲しさのほうが先に立っている気がする。

11. 謎の名無しさん
私はこの発見は本物だと思う。大騒ぎもしなかったし、金にしようともしなかったし、有名にもならなかった。得るものが何もないのに、わざわざ仕込む理由がどこにあるのか。硬貨がどうやってそこまで来たのかは分からないけれど、発見そのものは信じている。

12. 謎の名無しさん(>>11への返信)
その理屈は成り立たないと思う。逆の話も同じくらい簡単に作れるからだ。偽物だと分かっていたから公表しなかった、友人に見せて悦に入るだけにとどめた、表に出せば調べられてバレる——とね。本人の振る舞いは、どちらの証拠にもならない。

13. 謎の名無しさん
先史時代のアメリカ大陸では、物が交易でとんでもない距離を移動している。ニューメキシコ産の黒曜石がオクラホマやテキサスで普通に出てくるし、そこにアイダホ産まで混ざっていた。ニューファンドランドからメインなんて、この世界では珍しくもない距離だと思う。

14. 謎の名無しさん(>>13への返信)
中米のカカオがアメリカ南西部の四つ角地帯まで運ばれていたのも分かっている。大陸のあちこちで、人は想像よりずっと大きく物を回していた。

15. 謎の名無しさん
ヴァイキングは略奪者というより交易民で、毛皮や高く売れる物の仕入れ先を探していた人たちだ。ヨーロッパの端からアジアの手前まで行った連中が、カナダと米国の東海岸を見て「ここでやめておこう」となる理由が分からない。個人的には内陸のかなり奥、中西部あたりまで行っていたと思っている。

16. 謎の名無しさん(>>15への返信)
中西部はさすがに苦しい。実証されている痕跡はすべて北東の隅にあるし、当時はセントローレンス海路も存在しない。海の民が船を捨てて、あの距離を内陸へ歩いていったと考えるのは無理があると思う。

17. 謎の名無しさん
その毛皮は、ヨーロッパまで運べて初めて価値が出るものだ。運ぶ手段が細いのに集めても仕方がない。実際グリーンランドの主力の輸出品はセイウチの牙で、毛皮はそこまでの位置を占めていない。目的が毛皮だったという前提そのものを疑ったほうがいい。

18. 謎の名無しさん
撤退の理由は割と単純だと思う。補給が続かない、北東部の原生林は農地に向かない、開けている土地はすでに先住民が使っている。半分手なずけられたヨーロッパとは何もかも違う場所だった。腰を据えるには割に合わなかったんだろう。

19. 謎の名無しさん
交易でなくてもいいと思う。北欧人と先住民の衝突は何度も起きているし、この硬貨には首から下げるための穴が開いていた。倒した相手の身につけていたものを剥ぎ取った、あるいは転がっていた遺体から取った、というだけでも十分説明はつく。

20. 謎の名無しさん
関係あるか分からないが、狩りに行く大牧場で会った考古学者の話を思い出した。400年ほど前の岩絵を調べに来ていたのに、その一帯には人が暮らした痕跡がほとんど出ないらしい。絵を描いてすぐ去り、二度と戻らなかったように見えると。絵がなければ、誰かが通ったことすら証明できないと言っていた。

21. 謎の名無しさん
硬貨は判断材料として厄介だ。沖縄のうるま市にある勝連城跡からは、ローマ帝国の銅貨が出ている。だからといってローマ人が東シナ海まで漕いできたわけではない。物は人より遠くへ、しかもずっとゆっくり移動する。

22. 謎の名無しさん
私はまだ捏造の線を捨てていない。1957年というのは北米のヴァイキング熱がちょうど高まっていた時期で、贋物が次々に「発見」された年でもある。しかも発見者はコイン収集家で、オークションハウスで働いていた。入手経路も動機の温床も揃っている。

23. 謎の名無しさん
とても面白い話なんだけど、何百年もあれば海が大陸をまたいで物を打ち上げることはないの? 高波も嵐も津波もあるわけで、そこまで突飛な考えとも思えないんだけど。

24. 謎の名無しさん(>>23への返信)
海岸に打ち上がるのと、貝塚の堆積層の中から出るのは別の話だと思う。あそこは人が何百年もかけてゴミを積み上げた場所で、波が中身をかき混ぜたなら他の遺物の並びも崩れているはずだ。海が運んだにしても、最後に土の中へ入れたのは人の手だよ。

25. 謎の名無しさん
DNAの解析が進むほど、誰がいつどこにいたかの常識がひっくり返っていく。古代の人々は私たちが思うよりずっと動いていた。ロマの人たちの起源がインドだと分かったときも、当時はかなり驚かれたはずだ。

26. 謎の名無しさん
ニューファンドランド出身で、学生のときにベオスックについて調べたことがある。北欧人がここへ来たときの相手は、島に閉じこもり気味で船の文化を持たない人たちだった。土地は痩せていて、彼らが選んだ場所はもともと先住民にとって一等地の狩り場でもあった。長く居座れる条件ではなかったと思う。

27. 謎の名無しさん(>>26への返信)
ありがとう。このスレを読んでいて不思議なのは、当時の北米が無人の空き地みたいに語られることだ。イロコイのように大きくて強い集団がいる土地を、武装した見知らぬ一団が獲物を獲りながら自由に歩き回れたはずがない。

28. 謎の名無しさん
北欧人の本土滞在が短かったと考えるもう一つの根拠は、天然痘が先住民に広がっていないことだ。恒久的な入植地があって濃い付き合いが続いていたなら、後の時代に起きたことが500年早く起きていたはずだ。それが起きていない。

29. 謎の名無しさん
彼らを「アマチュア考古学者」と呼ぶのはやめてほしい。よく言って好事家、悪く言えば盗掘者だ。考古学は掘った時点で対象を壊してしまう学問で、記録の取り方を知らない人間が掘れば、その遺跡が持っていた情報は永久に失われる。実際もう戻ってこない。

30. 謎の名無しさん(>>29への返信)
気持ちは分かるけど、彼はメイン州の考古学協会に何十年も所属していて、会長も務めた人だよ。資料の多くが「アマチュア考古学者」と書いているのはそのためで、掘り方の是非とはひとまず別の話だと思う。

未解決の謎

メイン・ペニーの厄介さは、決定的な一手がどちらの側にも足りないところにある。硬貨が本物であることは誰も疑わない。腐食の状態も、長く土の中にあった物のそれだ。それでも「その貝塚から出た」ことを裏づけるのは、20年間ほとんど何も語らなかった発見者の証言だけである。専門家の評価が「捏造」でも「本物」でもなく「未証明」で止まっているのは、そのためだ。

そして、仮に発見が本物だったとしても、謎はひとつも減らない。北欧人が北米に来ていたことと、この銀貨がメイン州の貝塚に入っていたことは、別々に説明されなければならない問題だからだ。交易網を通ってきたのなら、途中の道筋に同じような品がもっと落ちていてよさそうなものだが、それも出ていない。北欧人自身が来たのなら、彼らは硬貨1枚以外の痕跡を丸ごと持ち帰ったことになる。どちらの説も、説明できない空白を抱えている。

逆に近代の混入や捏造だとすると、今度は「なぜこの硬貨だったのか」が説明しづらい。手に入れやすいドイツやアングロサクソンのペニーを使わず、現存の少ない稀少な区分の銀貨をわざわざ選び、しかも20年も黙っていた——仕込みとしては手が込みすぎているし、割に合わない。

結局のところ、この1枚が語れるのは「11世紀のノルウェーで打たれた銀貨が、いつかどこかで大西洋を越えた」という一点だけだ。誰が持ち込み、何人の首を渡り、どんな理由でメイン州の浜のゴミの山に落ちたのか。それを知っていた人間は、おそらく800年前にも1957年にも存在した。ただ、どちらも何も書き残さなかった。

出典:r/UnresolvedMysteries 元スレMaine penny – Wikipedia

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