1993年8月15日の朝、ドイツ船籍の小型貨物船がテムズ川の河口を離れ、菜種を積んでバルト海へ向かった。船主でもある50歳の船長はその日の朝7時に自宅へ電話をかけ、「河口まで来た、夕方には帰る」と妻に伝えている。だがその夜、船は港に着かなかった。次にこの船の関係者が人の目に触れたのは、4日後の北海の上だった。
デンマークの漁船が拾い上げたのは、空の救命いかだと、もう1艘に乗っていた28歳のロシア人船員だった。乗組員は6人。海の上に残っていたのは、その1人だけである。彼は毛布と枕と桃の缶詰を積み、6万ドイツマルクの現金を持っていた。あの週末に船の中で何が起きたのかは、30年以上経ったいまも確定していない。
事件の概要
🗓️ 発生日:1993年8月15日(推定)
🌫️ 場所:北海(イギリス・ロンドン発、ドイツ・ロストック行きの航路上)
👤 関係者:船主兼船長ハインリヒ・テルクマン(50)と乗組員5人
🔍 状況:菜種を積んで出港した小型貨物船から乗組員が消え、4日後に救命いかだ2艘が発見された。うち1艘に28歳のロシア人船員が1人だけ乗っていた
🕯️ 結末:船長の遺体は9月14日に発見。他の4人はいまも未発見。唯一の生存者は起訴されたが、1995年2月3日に証拠不十分で無罪となった
船の名は「ベルベル号」。1986年にオランダの造船所で起工され、1989年に船主のハインリヒ・テルクマンへ引き渡された、当時としては比較的新しい沿岸貨物船である。船名は彼の妻の名前から取られていた。乗組員6人で回せる規模の船だった。行き先はドイツ北東部のロストック※。ロンドンから北海を横切り、デンマークの海峡を抜けてバルト海に入る、この船にとっては珍しくもない航路だった。
※ ロストック:ドイツ北東部、バルト海に面した港湾都市。1993年当時は東西ドイツ統一から3年目にあたる。
唯一の生存者となった28歳のロシア人船員は、出港のわずか6日前、1993年8月9日に雇われたばかりだった。船は8月10日から15日までロンドンに停泊し、菜種を積み込んでいる。この5日間と、その後の数十時間に何があったのかが、この事件のすべてである。なお、この生存者の男性は起訴されたのち法廷で無罪となり、その後の追加訴追も行われていない。本記事では実名を出さず、「生存者の男性」として記述する。
判明している事実
最後の電話は日曜の朝7時
8月15日日曜の朝7時ごろ、船長は自宅の妻に電話をかけ、船がテムズ川の河口に達したこと、その日の夕方にはドイツに戻れることを伝えた。だが彼は帰らなかった。妻が翌16日の月曜に船へ連絡を取ろうとしたときには、すでに応答がなかった。デンマークの捜査当局は後に、乗組員の身に何かが起きたのはロンドン出港から48時間以内、ほぼ確実に15日の日曜だったと見ている。
4日後、救命いかだは2艘見つかった
8月19日水曜の午前10時45分、北海で操業していたデンマークの漁船2隻が、漂流する救命いかだ2艘を発見した。1艘は空だった。もう1艘に乗っていたのが、生存者の男性である。彼は救助に向かったヘリコプターに最初は乗ることを拒み、また救助されたときの様子は落ち着き払っていて、自分の状況を心配している気配がなかったと伝えられている。陸から数百海里離れた北海で少なくとも2日は漂流していた人物の反応としては、当時から不可解だと指摘されてきた。
船内に残されていたもの
ベルベル号自体はその後に発見された。船内には激しく争った跡と多量の血痕があり、とくに船内の作業室に集中していた。血を洗い流そうとした形跡も残っていた。ディーゼル油を使って船内3か所で火がつけられていたが、いずれも燃え広がっていない。船長室は荒らされ、船の金庫は中身を抜かれた状態で床に転がっていた。乗組員につながる唯一の痕跡は、机の上に置かれたままだった船長夫妻の娘の写真だけだったという。
6万マルクと一枚の写真
救命いかだの上には、毛布と枕、旧ソ連軍時代の身分証、桃の缶詰6個、コーラ、書類の詰まったスーツケース2つ、そして6万ドイツマルクの現金があった。1993年当時の為替で日本円にしておよそ400万円、2020年時点の価値に直すと約4万5000ユーロ、米ドルで約5万4000ドルに相当する。この金は乗組員の給与と船長の蓄えだったとされるが、生存者の男性は「車を買うために貯めた自分の金だ」と説明した。船長の妻は、救助されたときに彼が夫の腕時計を身に着けていたとも証言している。
三度変わった供述と、証拠不十分の無罪
彼は1993年8月19日に放火と5件の殺人で起訴され、同年12月13日にデンマークからドイツへ移送された。裁判は1994年9月5日にオスナブリュック地裁で始まっている。デンマークの捜査官に最初に語ったのは「火災から自分だけ逃げ、ほかの乗組員は溺れた」という説明だった。それが賃金と労働条件をめぐる船内の対立へと変わり、法廷ではさらに別の筋書きになった。最初の説明は嘘だったと本人も認めている。1995年2月3日、彼は証拠不十分で無罪となって法廷を出た。6万マルクの返還も認められている。1996年7月30日にはドイツ連邦通常裁判所※が、追加の訴追は行わないと発表した。
※ ドイツ連邦通常裁判所:民事・刑事の通常裁判権における最上級審。日本の最高裁判所に近い立場にある。
主な仮説
仮説1:金銭が目的の犯行が、想定外の方向に膨らんだ
捜査側がもっとも重く見ていたのがこの線だった。船長室が荒らされ、金庫が空にされ、乗組員の給与を含む6万マルクが救命いかだの上にあった。この事実の並びだけを取れば、盗みが先にあり、それを見咎められたことから事態が転がった、という筋書きが自然に組み上がる。ただしこの見立ては最初から穴を抱えていた。船は8月10日から15日までロンドンに停泊していたのだから、金だけを持って陸から姿を消す機会は5日間もあったはずだ。なぜよりによって出港の直後だったのか、という疑問に、この仮説は答えられていない。
仮説2:賃金や労働条件をめぐる船内の対立が発端だった
これは生存者の男性自身が法廷で語った筋書きに沿う見方である。彼の説明では、船長と船員のあいだに待遇をめぐる対立があり、それが暴力に発展した。彼は自分が2人を死なせたことは認めたうえで、それは正当防衛だったと主張した。誰にも信じてもらえないと思ったために証拠を処分し、金は行方不明になった乗組員の家族に渡すつもりで持ち出した、とも述べている。ただし彼は結果としてその金を返していないし、この説明にたどり着くまでに供述は三度変わっている。法廷はこの筋書きを事実と認定したわけではなく、反証もできなかったというのが実際のところだ。
仮説3:船の上にもう1人いた、あるいは第三の関与者がいた
元スレでもっとも多く出たのがこの疑問だった。狭い船内で、1人が5人を相手にして、自分は無傷のまま脱出できるものなのか。奇襲が効くのは最初の1人か2人までで、残りに気づかれれば形勢は一気にひっくり返る。だとすれば協力者がいて、最後にその協力者も消えたのではないか——という読みである。もっとも、これを支える物証は何ひとつない。船内の血痕が誰のものだったのか、どの順番で何が起きたのかを詰められる鑑識が1993年の洋上事件では十分にできなかったことが、この仮説を検証も否定もできないまま残している。
仮説4:事故や火災が先にあり、脱出の過程で全員が失われた
最初の供述に沿う線である。船内で火が出て、乗組員が救命いかだで脱出を図り、そのうち1艘だけが助かった——という説明なら、いかだが2艘見つかったことや、船に放火の跡があることとは矛盾しない。ただしこの読みは、船長室が荒らされ金庫が空だったこと、作業室に血痕が集中していたこと、そして生存者の男性自身が後にこの説明を撤回したことと、正面からぶつかる。なお彼の出身地はポーランドとリトアニアに挟まれたロシアの飛び地カリーニングラード※であり、船を自力でバルト海の方向へ動かそうとしたが操船できなかった、とも法廷で述べている。
※ カリーニングラード:バルト海に面したロシアの飛び地。ポーランドとリトアニアに挟まれ、ロシア本土とは陸続きになっていない。
海外の反応
1. 謎の名無しさん
無罪判決のあと、同じ船で働かせてくださいと未亡人に応募したくだりだけは、不謹慎だと分かっていて声が出た。断られたという一行がまた効いている。
2. 謎の名無しさん(>>1への返信)
そこだけ切り取ると常識が抜け落ちているように見えるけど、計画性のなさと合わせて考えると、精神的に不安定だった可能性のほうが自分にはしっくりくる。
3. 謎の名無しさん(>>2への返信)
不安定というより、人との距離感の基準がそもそも違うタイプなのかもしれない。悪意がなくても、こういう応募をしてしまう人は現実にいると思う。
4. 謎の名無しさん
1人で5人を相手にできるものなのかがどうしても引っかかる。船の中は逃げ場がないぶん、奇襲が効くのは最初の1人か2人までのはずで、協力者がいたと考えるほうが自然じゃないか。
5. 謎の名無しさん(>>4への返信)
本人の供述に「反乱を起こした2人の船員」が出てくるのが気になる。捜査側が想定していた筋書きに半分だけ乗せた話なら、全部が作り話より通りやすい。
6. 謎の名無しさん
無罪になった人に罰がないのは当たり前で、それが法治というものだと思う。納得できない気持ちは分かるけれど、そこを崩したら結局は誰も守られなくなる。
7. 謎の名無しさん
当時の鑑識がもっと踏み込めていれば、船内のどこに誰の血が残っていたかで出来事の順番くらいは絞れたはずなんだよな。1993年の洋上事件だと、そこが限界だったんだろう。
8. 謎の名無しさん(>>7への返信)
布団と枕と桃の缶詰を積み込んでからいかだに移った人間が、命からがら逃げたようには見えないという点も、当時から繰り返し指摘されていたらしい。
9. 謎の名無しさん
船長室が荒らされていて金庫が空だった、という事実から素直に考えると、盗みの現場を船長に見られてしまった、という順番がいちばん自然に思える。
10. 謎の名無しさん(>>9への返信)
その順番なら、船長だけ遺体が上がって他の4人が見つかっていない理由も説明がつくんだよな。最初の1人だけは処理する余裕がなかった、ということになる。
11. 謎の名無しさん
ディーゼル油で3か所に火をつけて全部消えたというのは、鋼の船を燃やしたことがない人の発想だと思う。貨物船はそう簡単には燃え広がってくれない。
12. 謎の名無しさん
自分は正直、どちらとも断言できない。状況だけ見ればいくらでも黒く読めるのに、動機と時系列がどうしても最後まで噛み合わないままなんだよな。
13. 謎の名無しさん(>>12への返信)
本人の説明をそのまま信じたとしても、遺体を海に流して現金を持ち出したことは自分で認めているわけで、そこだけでも相当に異常な判断ではあると思う。
14. 謎の名無しさん
無罪判決はまだ理解できるとして、6万マルクがそのまま本人の手元に戻ったことのほうが驚きだった。ロシアの宗教画を売って作った金だという説明が通ったらしい。
15. 謎の名無しさん
『デッド・カーム 戦慄の航海』を思い出した。あの映画は海の上では助けが来ないという一点だけで成立していたけど、この事件も構造としてはまったく同じだ。
16. 謎の名無しさん
無人の船に乗り込んで、乗員が死んだ瞬間を一人ずつ再現していく『Return of the Obra Dinn』という推理ゲームがあるんだが、あれをそのまま現実に持ってきたような話だ。
17. 謎の名無しさん(>>16への返信)
あのゲームは最後に全員の死因が確定するから気持ちよく終われる。現実の北海には、その道具が最初から無いというだけの違いなんだよな。
18. 謎の名無しさん
陸から数百海里離れた北海で2日以上漂流していた人が、救助されたときに落ち着き払っていたという記述がいちばん引っかかる。普通なら寒さと脱水でそれどころではない。
19. 謎の名無しさん
救助ヘリに最初は乗るのを断った、という部分の意味がずっと分からない。あの状況で、いかだのほうがまだ安全だと判断する理由が何かあったんだろうか。
20. 謎の名無しさん
2009年にデンマークのラジオが本人を見つけたときには、海難救助の施設で中間管理職をしていたという。この結末だけは、小説なら出来すぎだと言われて書き直しになると思う。
21. 謎の名無しさん
その仕事を償いとして読むのはロマンチックすぎる気がする。船の世界しか経歴がない人が陸の職に移るのは簡単じゃないし、単に海に残るしかなかったとも読める。
22. 謎の名無しさん(>>21への返信)
同意する。船員としての職歴は陸の会社ではほとんど評価されないから、選択肢が海しかなかったという説明のほうが現実的だと思う。
23. 謎の名無しさん
この事件を扱う記事で、消えた4人の名前が省略されがちなのが気になっていた。機関士、船員、一等航海士、そしてコック。全員に生活があって、帰りを待っていた人がいた。
24. 謎の名無しさん
遺族の立場で考えると本当にきつい。遺体も戻らず、判決も出ず、30年以上経っても何が起きたのかを誰も説明してくれないままだ。
25. 謎の名無しさん(>>24への返信)
遺体が見つからないと、死亡の認定から保険や相続の手続きまで全部止まってしまう。悲しむ以前の事務作業で何年も削られることになるんだよな。
26. 謎の名無しさん
船そのものが名前と持ち主を変えながら今も動いている、というのがいちばん不気味だった。この件の唯一の物言わぬ目撃者が、まだ現役で海に出ている。
27. 謎の名無しさん
ロンドンに5日間停泊していたなら、その間に現金だけ持って陸に消える選択肢があったはずで、なぜ出港した直後というタイミングだったのかが分からない。
28. 謎の名無しさん(>>27への返信)
逆に、故郷のカリーニングラードに近づいてから動くほうが自然だとも思う。出港直後というのは、どの動機を当てはめても中途半端な位置なんだよな。
29. 謎の名無しさん
オーラン・メダン号みたいな作り話と違って、この件は裁判記録も当時の新聞記事も残っている。それなのに中身が分からないというのが、いちばん答えに困るところだ。
30. 謎の名無しさん
結局、あの週末を見ていたのは船と生存者だけなんだよな。片方は語れず、もう片方の語りは三度変わった。ここから先に進むための材料が、本当に何ひとつ残っていない。
未解決の謎
この事件がいまも解けないままなのは、証拠が足りないからというより、残された事実の並びがどの筋書きにも完全には収まらないからだ。船長室が荒らされ、金庫が空になり、乗組員の給与を含む現金が救命いかだの上にあった——ここまでは金銭が絡んでいたことを強く示している。ところが、その動機で全体を説明しようとすると、時系列が途端に成立しなくなる。船は5日間ロンドンに停泊していた。金だけを持って陸に消える機会は何度もあったはずなのに、なぜ出港の直後、北海のど真ん中という最も逃げ場のない場所だったのか。
もうひとつは、生存者の側に残された不自然さである。彼は無傷だった。狭い船内で複数の乗組員に何かが起きたにもかかわらず、彼は傷ひとつ負わずに救命いかだへ移り、毛布と枕と食料まで積み込んでいる。かと思えば、船を自力で動かそうとして失敗し、救助ヘリには最初乗るのを拒んだ。周到さと無計画さが同じ人物の行動として同居している。この矛盾こそが、彼を有罪にできなかった理由でもあり、同時に彼の説明を信じきれない理由でもあった。
そして最大の壁は、1993年の洋上という現場そのものだった。船内のどの血痕が誰のものだったのか、争いがどの順番で起きたのかを詰められる鑑識が当時は十分に行われず、遺体も1体しか戻らなかった。物証を並べ直すことで真相に近づく道が、事件の直後に閉じてしまっている。法廷は証拠不十分として無罪を言い渡し、1996年には追加の訴追も行わないと決まった。この判断は法の手続きとして正しく、そして同時に、4つの家族に何ひとつ答えを返さなかった。
ミハイル・ミハイロフ、ウラジスラフ・ボグダン、ヴィクトル・ヴァレンコ、アナトリー・スモリヤク。1993年8月の北海で消えた4人は、30年以上経ったいまも見つかっていない。ベルベル号は名前と持ち主を変えながら現役で海に出ており、あの週末の唯一の物言わぬ目撃者として、今日もどこかの航路を進んでいる。

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